2008年5月13日火曜日

自転車泥棒 3

 ふと、ずっと昔に観たイタリア映画「自転車泥棒」を思い出した。一九八四年製作の米アカデミー外国映画賞を受けた巨匠ヴィットリオ・デ・シーカ監督の作品である。

 明日がやっとありついた父の初仕事の日ということで、小学校四年生くらいの息子は自転車をぴかぴかに磨いて父を送り出そうと張り切っている。仕事はポスター貼りだ。だから自転車は必需品だ。ところが、父がはしごに登って大きなポスターを貼っているうちに自転車を盗まれてしまう。

第二次世界大戦直後のイタリアは仕事にありつくのは至難のわざ業。商売道具の自転車を盗まれては仕事にならない。親子は悲惨な状況に陥る。友人もいっしょに探してくれたが見つからない。

思い余った父親は息子に先に帰るように言って、自分は他人の自転車を盗んだ。が、見つかって取り押さえられ、袋叩きにあう。その様子を帰る電車に乗り損ねた息子が見ていた。子供の目の前で屈辱にまみれ絶望に打ちひしがれた父親。その父親の手を息子がそっと握りしめる。

 このラストシーンの「切なさ」と「やりきれなさ」が観客の心を打つ名作であった。

 盗まれた人間が、やむにやまれず盗みをはたらかねばならないという厳しい社会状況。そのような貧しさは戦中戦後の日本にもあり、そこから抜け出そうとして人々は一生懸命働いた。そして、社会は豊かになり一億飽食の時代にはなったが、ついぞ予期した「衣食足りて礼節を知る」時代にはならなかった。のみならず、国民が等しく豊かになれば盗みはなくなるだろうとの期待はあったが、現実に豊かな時代になっても盗みは依然として横行している。まさに、弁天小僧の浜松屋のせりふ「石川や、浜の真砂は尽きぬとも、世に盗人の種は尽きまじ」、である。

 けれども、昭和の末頃までは、こそ泥を含め盗難はあるにはあったが、現在ほどひんぱんではなかったように思う。貧しくても、親は吾が子に対して他人のものを盗むな、他人に迷惑をかけるな、と厳しくしつけ、それなりの効果があった。今は自転車の盗難などは日常茶飯事となり、罪悪感が希薄になってしまったようだ。

 しかし、このままでいい訳がない。聖書にも、仏教の本にも盗むなと教えてあり、それは道徳の基本である。如何に豊かになっても、それが守れない世の中では人間は真の幸せになれない。これからは経済成長はゆっくりでいいから、人々が道徳の基本を守り安心して楽しく暮らせる世の中にしたいものである。それは人々の意識をかえることで大変むずかしいとは思うが、憲法改正よりも優先して取り組むべき喫緊の要事ではないだろうか。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

コメントいただきましてありがとうございます。
幸い私は今まで泥棒にあった事がないですが、私の母や友人は空き巣に金品を盗まれた経験があり、今ではその場にいると命を落とす事もあるので留守中でよかったなど話してました。
どんな事情があっても人の物は人の物ですよ。