2011年11月25日金曜日

私の葬式

 私の七人兄弟のうち、長兄は昭和二十年六月二十日夜、沖縄で二十五歳で戦死した。残りの六人は戦後ずっと生き長らえたが、最近になって平成十五年九月、次女・きみ喜美が口腔ガンのため七十三歳で、平成十八年九月、四男・明が肝臓ガンのため七十一歳で、平成十九年六月、次男・謙二が胃ガンのため八十六歳で相次いで身罷った。

生存しているのはさんなん三男の私(八十三歳)、長女八重(八十一歳)、三女久子(六十三歳)の三人で、この
うち八重は小学六年のとき健康優良児として表彰され、農家に嫁ぎ今も頑健で農事にいそしんでいるから、おそらく最も長生きするに違いない。久子は子宮ガンを患ったが治ってから五年経ち、まだ若いから当分心配はないと思われる。そして、私はC型肝炎が持病で長期的に見ると肝機能を示す数値が少しずつ悪くなってきているため、次にきせき鬼籍に入る可能性が最も高いようだ。来世などいささかも信じなかった兼好法師は『死は目の前にあるのではなく、背後から迫ってくるものだ』という(『徒然草』一五五段)。私の背後には既に死がひたひたと迫っているのかもしれない。

 そこで私は、自分の死生観とか葬式観などをとろ吐露し、私が死んだらこのように葬って欲しいことを予め書き出して、近親者の主だった人たちに理解しておいてもらおうと思い立ち、四年前に書いた「私の葬儀マニュアル」を再検討し、改めて「私の葬式」について纏めてみた。


 〔一〕人は死ぬと肉体は無くなるが、魂は生き長らえ、生まれ故郷の虚空へ戻る。ただし、その故人のことを思ってくれる人が生きている限り、魂はこの世に留まっている。

「約百五十億年前、ビッグバン(宇宙の大爆発)によって地球が生まれ、その後地球に生物が発生し、約百五十万年前に人間の祖先が生じた。人間はもともと宇宙即ち虚空から来た旅人であり、死ぬということは生まれ故郷の虚空へ帰ることである。」との説がある。私はこの説にほぼ同感である。そして、「私が忘れたらあの人は二度死ぬことになる。人が死んでもその生前を知る人が生きているうちは死んだことにはならない。生者が心のうちに呼び起こすことが出来るからだ。記憶する人も死に絶えてしまったとき死者は真の死者になるのだ。」というアフリカ先住民のある部族の死生観と同様に、「死後、その人を思ってくれる人が、この世に一人でも生きているうちは、その人の魂はこの世に留まっている」と考えている。 

 〔二〕人は現世の人が自分を思い出してくれるよすが縁にするために墓をつくる。

 我が国の葬法にはかって土葬、火葬、風葬などいろいろあった。時代により地域により、その形式・内容はさまざまな変化を示したと思われるが、今は火葬が一般的だ。私は日本人の葬法というものを考える場合、遺骨崇拝の伝統を念頭におくことが大切であると思う。そして、この葬法との密接な関係のもとにつくられたのが、お墓である。墓があれば、そこに遺族が詣でることにより、本人を偲ぶきっかけになり易いと思う。

 かつて、権力や財力のある者は大きな墓をつくった。エジプトのピラミッド、中国の西安郊外にあるしん秦のし始こうてい皇帝陵、日本の仁徳陵をはじめとする巨大な前方後円墳、などはその代表的なものである。

 しかるに、このところ大都市を中心に墓地の取得が困難になってきた。人口の集中、墓地敷の高騰といった状況が進行してきたからである。一方、過疎化した地方では、寺に付属する墓の無縁仏化が目立つようになった。墓と遺骨の関係者が都会にでかけたまま戻ってこなくなったのである。それだけではない。夫の家の墓に入りたがらない妻たちが増えはじめた。女たちだけのしえん志縁はか墓をつくる運動まで火がついた。つまり、死んだ人間の骨をまつ祀る観念がゆらぎはじめ、それを管理する方法が多様化のきざしをみせるようになったのである。ちょうどそのような時期に元駐日大使ライシャワー氏が亡くなって、その遺灰がアメリカ西海岸にまかれ、話題を呼んだ。いわゆる散骨葬送が俄かに脚光を浴びるようになったのだ。故ライシャワー氏の前にも、インドのマハトマ・ガンディやネール元首相の場合も、骨灰はガンディス川にまかれ、上空から大地に散布された。中国の周恩来元首相も死後その骨灰が中国大陸に散布されている。もっともヒンドウー教徒はもともと骨灰をガンディス川に流すと魂は必ず昇天すると信じて墓は一切つくらない。インドはむぼ無墓文化国なのである。それ故に可能となった散骨であろう。これに対し日本には昭和二十三年五月三十一日に公布・施行された「墓地法」があって、その第四条により遺体や遺骨を勝手に処理できない。従って散骨は公然とは出来ないのが現状である。

 また、このごろ「私のお墓の前で泣かないでください」とクラシック歌手が歌う『千の風になって』が大流行しており、何でもミリオンセラーに達する勢いで売れ続けているという。いまや葬儀でも頻繁に流される歌となった。このため、「私は墓にいない、死んでなんかいない」という表現は、日本人が共有してきた仏教的な死生観とは異なると、仏教界を大いに慌てさせている。これは仏教界が葬式などの法事のみに明け暮れていた当然の帰結といえよう。

 東京大のしまぞのすすむ島園進教授(宗教学)は『千の風』の世界観を「死者と生者の関係が非常に近く、個人的だ」とみる。これまでは身内が他界すれば,通夜などに親族や近所の人が集い、飲食を共にしながら、死者の思い出を語らい、悲しみをいや癒してきた。さらに先祖を供養し墓を大事にすることで、「家」というシステムにおいて死者との一体感を維持していた。だが、そうした共同体の機能はどんどん失われているという。そして、「死者との交わりが個的になり、痛みや苦しみも個々人が抱え込んでしまっている」と分析する。そうした時代を生きる人たちには、「風になって空を吹きわたっている」死者との交流がストレートに響くのであろう。(朝日新聞より引用)

 いずれにせよ、日本人の死生観、葬式観や、墓に関する価値観が大きく揺らぎはじめているのは確かなようだ。
 〔三〕吉田町の実家は代々、曹洞宗の信徒であるが、私は浄土真宗の開祖しんらん親鸞に次の三点から魅力を感ずるようになった。

 まず第一に、他力本願であること。親鸞の教えは「一心に南無阿弥陀仏を唱えれば救われる」という浄土宗を開いた法然よりも更に徹底している。人が阿弥陀に帰依の心をおこした時に、極楽往生は約束されると説いた。私はこと信仰に関してはまことに不熱心で、二六二文字しかない「はんにゃ般若しんぎょう心経」すら未だにそら諳んじられない。ましてや、自力で悟りの境地に達する自信がないから、他力すなわち阿弥陀如来の本願の力によって成仏するしかないと思っている。

 第二に、自ら肉食妻帯を認め、世俗の欲望を肯定したこと。親鸞は女人をけが穢れの存在とみてかんいん姦淫を禁止した仏教の戒律と自らの性欲の間で悩んだ末に、公然と妻帯に踏み切った。妻となった女性が、親鸞を献身的に支えたけいしんに恵信尼である。

 鎌倉時代は北条政子をはじめ女性の地位が向上した時代で、女性を差別していた仏教界も法然が女人往生を説いて以来、日蓮(日蓮宗の開祖)、道元(曹洞宗の開祖)、そして慈円(天台座主、「ぐかんしょう愚管抄」の著者)さえもこれに倣った。親鸞はさらに妻帯という形で女性の人格をみとめたのである。
 尤もこれには元久一(一二〇四)年十一月、法然の念仏教団に弾圧があり、親鸞もこれに連座し、藤井義信の俗名を与えられて越後の国府(新潟県直江津)に流された。これより非僧非俗の形をとり、ぐとく愚禿と自称し、しゃみ沙弥生活を理想として配流生活を送っていた時、その配所でみよしためのり三善為教の娘といわれる恵信尼と結ばれ、子女をもうけて家庭生活を営んだといういきさつ経緯がある。が、ともあれ、その親鸞の生きざまに魅力を感じる。

 序でながら、江戸時代以降、僧侶の女犯は厳しく取り締まられ、浄土真宗以外、妻帯は今も認められていない筈だが、他の宗派ではうわべ上辺はきんき禁忌としているものの、実情は多くの僧侶が妻帯し、どの宗派も、今や寺の住職は世襲が当たり前になっている。

 第三に、死者を差別しない。
 仏教では死者に戒名か法名を与える。その戒名にはいかい位階があって、例えば、曹洞宗の場合、昔は寺に対する功労のたか多寡により位階を与えられたが、昨今は葬式の際のお布施の額によるようになった。
 男 院殿大居士 院殿居士 大居士 居士 上座 清信士 信士
 女 院殿大大姉 院殿大姉 大大姉 大姉 法尼(尼上座) 清信女 信女
ちなみに、元総理の故小渕恵三氏の戒名は大名並みの院殿大居士である。

 浄土真宗では戒名と云わず法名という。浄土においてはすべての仏が平等であるという見地から、法名は釈という字の下に二字ということになっており、位階に差を付けない。国文学者・歌人・民俗学者の折口しのぶ信夫(一八八七~一九五三)は生前法名の「しゃくちょうくう釈迢空」を筆名にしていた。また、昭和六十一(一九八六)年に九十六歳で長逝された島田市の名誉市民、本通り五丁目の清水真一さん(通称チシンさん)は、二十七歳のとき「しゃくぶんせい釈聞正」という生前法名を受けており、没後、いた伊太はっさし旗指にある浄土真宗・東本願寺派の光雲山敬信寺境内の墓地に葬られている。人間は生死を問わず平等であるというこの民主的な考え方を浄土真宗が持っていることに私は魅力を感ずる。このような理由で私はチシンさんと同じく敬信寺に墓地を求めた。蛇足だが、作家の山田風太郎(一九五二~二〇〇一)は七十九歳で死去したが、戒名「風々院風々風々居士」は自ら付けた。

 〔四〕日本の仏教はしゅじょう衆生さいど済度の基本方針を変更したのか、檀家の葬式や法事という儀式を執り行う組織と化した。

 イスラム教ではアッラーの神を信じて戦えば死後天国へ行けるという。その教えを信じ、今もアメリカ軍に対して自爆攻撃をする者が後を絶たない。結婚して米国籍となったクリスチャンのY子さんは私にこう語った。「キリストが原罪を背負って十字架で処刑されたため、私たちはみな天国へ行けます。天国は毎日が楽しくいいところです。日本では死ぬことは悲しく望ましくないと考えられていますが、キリスト教徒にとって死ぬとは天国へ行けるという喜ばしいことなのです。」このように、一神教のイスラム教やキリスト教の世界では、宗教が現に事実として生きているのである。

 日本でも戦国時代までは仏教が庶民の間に生きていた。仏教を守るために佛敵と戦って死んだものは極楽往生できるという教えを信じて戦った加賀の一向一揆や、戦国大名などの領国支配に反抗した各地の一向宗徒の集団の制圧に、さすがの織田信長も手を焼いた。また、徳川家光の時代、幕府はキリスト教徒を弾圧するために檀家制度をつくった。それは「日本人は仏教の何れか一つの宗派に檀家として登録せよ。しない者はキリシタンとして処罰する」というものである。この定めにより各寺院には檀家が登録されて固定し、檀家から布施が自動的に入るようになった。それ故、各寺院は仏教の研鑽、修行、布教の努力を怠り、葬式や法事を行うための組織に堕落し、しゅじょう衆生さいど済度とは縁が遠くなったのである。

 〔五〕葬式はなるべく簡素であるべきだ。

 戦国時代頃まで野辺の送りは簡素であった。浄土真宗においては、阿弥陀如来のほんがんりき本願力にすがって極楽へ行けるのであるから、生きている人間が死者をより良い世界(極楽)へ送ることは出来ない。それどころか、宗祖親鸞聖人自身が「それがし閉眼せば、加茂川へ入れて、魚に与うべし」(かいじゃ改邪しょう鈔)という言葉を残しているように、死者儀礼(葬式)そのものさえ不必要なのである。

 しかしながら日本人は古来、先祖を手厚く葬る習慣があり、江戸時代に檀家制度が出来てからは、葬式・法事といった死者儀礼を僧侶が専ら執行するようになった。これは前述のとおり寺の収入維持とも関連する。そして戦後、経済的に豊かになるにつれて、葬式が一段と丁寧に行われるようになった。そして、今や葬祭業者の巧みな術中にはまって丁寧を通り越し盛大の一途をたどっている。私も年相応にこれまで数多くの通夜や葬儀を経験してきたが、こうした風潮を苦々しく思っている。

 元島田市長加藤太郎氏のご母堂ツナさんが五年前に九十七歳で不帰の客となられた。ツナさんは生前、日本女子大同窓会の島田支部長を長く務められ、その間、私の妻が支部の事務を担当していたので、お悔やみに伺おうとしたところ、通夜・葬式は親戚縁者だけで行うということでいんぎん慇懃に断られた。通夜の時、近親者だけで故人のことをしんみりと話すことができて大変良かった、という話を後日知った。「昔と較べてこのごろは葬式が派手になってきた。もっと簡素にした方がいいと思うのに、事が事だけになかなか改めにくい。加藤さんのような有力者が、このように簡素な葬式をやられたことは喜ばしい」という話を友達から聞いた妻は、こういう葬式のやり方がいいと思う、と私に話した。

 沖縄で戦死した長兄には、無事に帰ったら結婚しようと約束したひと女性がいた。その兄が遺骨で帰り益田家の墓地に葬られると、その女性は牧之原市から吉田町の長源寺まで、凡そ六十年という気の遠くなるような長い間、長兄の月命日の二十日には欠かさず墓参にこられた。私はその話を聞き、その人の供えた花を見たとき、そのひたむきな愛の強さに感動した。そして、戦場で花と散った長兄はこの点では幸せな人だったといえると思った。六十二回目の命日を迎えた長兄の墓は、今年もその女性の供えた花で美しく飾られていたという。私は葬式を盛大にしてもらうよりも、このような人がひとりでもいた方がどんなにか嬉しいだろう、と亡き長兄を羨んでいる。
 
 戦後、民法が変わり、家督相続はなくなって、結婚すれば新しい戸籍になることになったが、長い間の慣習を改めることはむつかしい。特に長男で親と同居し、祖先の位牌と墓を受け継いだ者が、お寺とのつき合いを唐突に改めることは極めて困難である。それに較べ私の場合は三男であるから、どこの寺に墓地を求めるか、葬式をどのようにするかは自分の判断で勝手に決めることができる。だからといって、評論家の故・中野好夫のように平生から「自分は死後の世界など全く信じない」という本人のかねてよりの意志により、ひつぎ柩には花束も置かず、遺影一枚が飾られただけであった。また戦後、吉田茂の片腕となってはちめん八面ろっぴ六臂の大活躍をした故・白洲次郎のように「葬式無用、戒名無用」を遺言し、遺族に実行させた――というような、残された家族や近親者を困惑させる極端な事はできない。

 そこで、私は敬信寺の住職と話し合い、私の葬式を次のように簡素に行うことにした。

 葬式のマニュアル(基本)
一、通夜・だび荼毘・葬式は近親者のみにて行う。
 一般の人及び隣組の人には通夜・葬式共に遠慮して頂き、香典、花輪、生                                           花、供物等は一切辞退する。
二、通夜 自宅
  斎場 敬信寺
  僧侶 敬信寺住職伊藤稔氏外一人(住職了承済み)
三、通夜・葬式への出席が予想される人 約三十人
(平成十九年七月)                    

法名「釋游文」

 昨年九月に弟の明が七十一歳で亡くなり、今年六月に兄の謙二が八十六歳で他界したので、今年は初盆の法事が二つあった。この二軒は隣り合っており、先ず明の家で八月十一日午前十一時から、つづいて午前十一半から兄の家で、それぞれうらぼんえ盂蘭盆会が行われた。

 弟の家での法事の際、未亡人Y子さんが、亡夫の戒名「みょうこうしゃしんこじ明光写真居士」が気に入らないらしいと知った。法要後のおとき御斎で、彼女にそれとなく訊ねると、「夫は無類の写真好きでしたが、戒名らしい重々しさが感じられない」とのことであった。私も同感である。何となれば、戒名は死者のあ彼の世における名前だからだ。来世の極楽は全くくげん苦患のない安楽の世界と言われるが、其処は喜びあふれる賑やかな楽しい所ではなく、曖昧模糊とした心静かな楽しい所らしい。従って、「写真」のような具体的なもんごん文言を戒名の中に使うのは不適当と思われる。これまでに私は「写真」という字句の入った戒名を見たことも聞いたこともない。しかも、戒名を決める際、住職から事前に何らの断りもなかったとのことだ。住職が手を抜いたのではないかという感じがしてならなかった。

 兄の子ども達はY子さんの不満を知っていたので、父親の戒名は自分たちが納得するものにしようと相談して、「けんしきじゅれいこじ謙識樹嶺居士」という戒名をひねり出し、住職の承諾を得たという。謙は名前の一字、識は博識で益田一族のルーツなどいろいろなことを調べて周りの人に知識を与えてくれたという意、樹は庭に多くの木を植え盆栽を楽しんだ、嶺は山登りを好んだ、というように父親の好きだったことをまとめたものである。子ども達に拍手を送りたいところだが、盛り沢山過ぎるような感じがしないでもない。

 私はY子さんに「これから先ずっと、あなたは仏壇の位牌を拝むたびに嫌なおもいをするのは遣り切れないでしょう。私が介添えしますから、住職に戒名の変更をお願いしたらどうですか」と助言してみた。けれども彼女は、墓石に刻まれてしまった戒名を変えると不吉なことが起こるという因習があるのと、住職に楯突くようなことはしたくないとのことだったので、戒名はそのままにしておくことにした。


 私はかねてから親鸞の思想・信条・行動を優れたものとして、心酔している。その親鸞は「それがし閉眼せば、加茂川に入れて魚に与うべし」(かいじゃしょう改邪鈔)という言葉を残し、自身が入寂しても墓はつくらなくてよいと言っているが、私は、残される身内の世間体等を慮って、平成十三年十月、伊太旗指にある浄土真宗・東本願寺派の光雲山きょうしんじ敬信寺に墓地を求めた。その後、葬式の方法については親鸞の教えに添い、なるべく簡素に行いたいと考え、平成十六年七月、葬式のマニュアルをまとめ敬信寺十四世住職・伊藤稔氏の了解を得た。

 今、私は八十三歳、妻は八十二歳である。五年ほど前に発病した妻の認知症は次第に進行し、近頃は体も衰えて歩行がままならなくなった。そして、私も持病のC型肝炎のゆえかひるひなか昼日中でも床に就き体を休めている時間が多くなった。私たち夫婦はいつどちらが先に逝くかわからない状態になったので、遺される親族のものが負担になることは可能な限り少なくしようと思い、葬式の方法について再検討し、改めて『私の葬式』なるマニュアルを作成した。その際、仏教について少しく勉強し、戒名に関する知識を得た。

 人は鬼籍に入る際に菩提寺の住職によって戒名をつけられるが、本来、戒名は死後に付けられるのではなく、生きているうちに付けるもののようである。また、多くの宗派は戒名というが浄土真宗では法名という。浄土真宗の場合は「浄土においてはすべての仏が平等である」という意味合いから、法名は釋の下に必ず二字ということになっている。そして、生前法名は菩提寺の住職を通して真宗大谷派本山の東本願寺(お東)法主による剃髪式が行われたうえで与えられる。私はこの生前法名をぜひ得たいと思った。

 そこで八月二十四日に敬信寺へ行き、伊藤住職に『私の葬式』を進呈して葬式の打合せをした折、生前法名授与についてお願いすると、住職は「もちろん結構です」と言われた。敬信寺におけるこれまでの法名授与について訊ねると、住職はその帳簿を見せてくれた。そこには十人余りの人名が列記してあった。夫婦揃って授与されている人もあり、夫のみ、妻のみの人もいた。半数近くは私が知っており、いずれも人生や生死について深く考えていそうな方たちであった。その中には、私が島田商業の教師時代の教え子T子さんの名前もあった。

 しばらく経ってからТ子さんに会い、生前法名を受けた経緯を訊いてみると、「生家は日蓮宗でしたが浄土真宗の家に嫁ぎ、敬信寺へ毎月行って住職の法話をお聴きしているうちに、ここに安心の源があるような気持になり、二十年近く前に〝芳心〟という法名を頂きました。」と話してくれた。素直な心の人だと思った。私の実家の檀那寺である曹洞宗・長源寺では戒名を生前授与される人はほとんどいないようだが、敬信寺では予想外に多くの人たちが生前法名を受けている。そして、浄土真宗では法名を生前授与する全国的なシステムができているようだが、このことは曹洞宗よりも浄土真宗のほうが仏教がより生きている証左と言えないだろうか。

 
昭和六十一年(一九八六)に九十六歳で永眠された島田市の名誉市民第一号、本通五丁目の清水真一さん(通称チシンさん)は、二十七歳のとき「しゃくぶんせい釋聞正」という生前法名を受けており、没後、この敬信寺の墓地に葬られた。チシンさんの法名「釋聞正」は人の話を正しく聞くという意であろうか。国文学者・歌人・民俗学者の折口しのぶ信夫(一八八七―一九五三)は生前「しゃくちょうくう釋迢空」という法名を戴き、それを作品発表の際に筆名として用いた。


 私は自分の法名について考えてみた。それは八十年間の私の生きざまを二文字で如実に示すものでなければならない。

 先ず、「じきょう自彊」を頭に思い浮かべた。私の母校・自彊小学校の校名である。「自彊」という言葉は明治四十一(一九〇八)年に国民教化のために出された『ぼしんしょうしょ戊申詔書』から引用したもので、その出典は中国の『えききょう易経』の中にある。「しょうじつてんこうけん象日天行健、くんしはもってじきょうやまず君子以自彊不息」。天の歩みは誠に力強い。君子はこの天にのっとって、休みなく自彊(自己を強制する。私欲に克つ)の努力を続けてゆくべきである、との意のようである。私はこれまで、「目標を定め、努力してそれを達成する」という信条で生きてきた。ゆえに「自彊」は私の生きざまを的確に表現しているが、文字だけ見ると意味が分かりにく難い―と思われるので取り下げた。

 次に考えたのは「水」に関連する二文字である。水は人間にとって極めて大切なものだ。人は食べ物がなくても一か月近く生きられるが、水がなければ数日で死ぬ。また「水は、方円の器に随う」という。人は交友・環境しだいで善悪のいずれにもなる、とのたとえだ。更に、水を飲むとき、その水源を思う、幸せをくれた恩人を忘れないたとえで「飲水思源」という言葉もある。常に低いほうへ流れるという水の原理は不変である。そして水は天から下り、霧・雲・雨・雪・あられ霰・露・霜と変化して再び水蒸気となって天へ戻る。そうした自然の運行によって人間の生活にうるおいを与えてくれる。私は水の如くありたいと願い、「如水」はどうかと思った。しかし「如水」といえば、豊臣秀吉の知恵袋と言われた竹中半兵衛と並ぶ知将の黒田如水があまりにも有名なので、私の存在は消えてしまう。これもボツにした。


 月一回の定例文章会から帰路、車の中でNさんに法名についての苦労話をしたら、彼女から、
「益田さんは文章を書くのがお好きだから、〝文〟を入れたらどうでしょう」との助言があった。
「うむ。これは行けそうだ」と、私は咄嗟に感じた。Nさんの思い付きが私の琴線に触れたのである。そして〝文〟についてあれこれ考えた末、「ゆうもん游文」の二文字に到達した。
 平成十一年三月、春のお彼岸の日、大井川民俗の会の一行に加わり、マイクロバスで水戸を訪れたことがある。たまたまその年、NHKの大河ドラマ『徳川慶喜』が放映され、水戸藩主・徳川なりあき斉昭が登場するので、水戸には『徳川慶喜展示館』が設けられていた。私たちは展示館や偕楽園の梅林、好文亭などを見学してから弘道館に立ち寄った。弘道館は斉昭が創設した藩校である。正面玄関横の梁に、てんしょたい篆書体で「げいにあそぶ游於藝」と書かれたへんがく扁額が掲げてあって、斉昭の雅号の落款があった。斉昭は書が得意であったというが、けれんみのない品位ある筆跡である。傍らに、「六藝〝礼、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬術)、書、数〟を学ぶ時、学問武芸にこり固まらずにゆうゆう楽しみながら勉強するの意」との説明文があった。「游」は「遊」と同義である。「藝に励む」といえば平凡になる。「藝に游ぶ」というこの表現は、なんと素晴らしい語句だろう。「真面目一本槍では駄目で、ゆとりを持って楽しみながら学ぶ」というこの弘道館の教育方針は、点取り主義でゆとりが無く、受験勉強に明け暮れる日本の教育の現状を、痛烈に批判しているように思った。私は、この文言を考案した斉昭に畏敬の念を覚えた。(ただし、これは斉昭の創作ではなく、論語のじゅつじ述而篇第七にある文句であることを後日知った。)

 私は、心の奥深くに入っているこの「游於藝」の字句を思い出した。芸といえば、これまでに私は数社の経営に参画し、三つの自由業に取り組み、趣味として文章・長唄・囲碁・ゴルフ等をたしな嗜んだので、こじつければ斉昭のいう六芸に励んだことになるかもしれない。そこで法名を「游芸」にしようと思ったが、遊芸というと一般的には琴・三味線・踊り・小唄などの遊びごとに関した芸能を連想するからやめて、私の六芸の中で最後まで残った「文章」のみにしぼりこみ、「游文」という法名を思い付いた次第である。

 顧みれば、私は故・内藤亀文先生のご指導を受けて文章を習い始めてから四十年経ち、随筆文集『しぐれシリーズ』を六号まで上梓し、近く七号を出版しようとしている。そして、文章というものはどのようにして書くべきかということが最近になって少し分かってきたような気もする。高齢のため、他の芸はすべてできなくなったが、文章だけは今も続け、それが唯一の生き甲斐となって、私は今も充実した人生を送っている。文章こそ私の人生の支柱であり、それを表す「游文」は私にとってまこと実にふさわしい法名であると思う。
 

 伊藤住職に法名授与の具体的方法について尋ねると、希望者に対しては東本願寺の静岡別院で五日間(一日四時間)の前期教育があり、少し間を置いて京都の本山で三日間の後期教育が行われて、その後に法名が授与されるのだという。けれども、悲しいかな、今の私の体力では到底この二つの教育に耐えられないから、生前授与は極めて困難である。従って住職にお願いして、法名を登録しておき、死後授与になると思う。

 碁ワールド九月号に高尾しんじ紳路名人・本因坊に関する記事が載っていた。今年の本因坊戦七番勝負で高尾が挑戦者依田のりもと紀基九段を下し、本因坊戦三連覇の偉業を為し遂げた。そこで師匠の藤沢ひでゆき秀行名誉棋聖が高尾に本因坊秀紳という号を贈ったという。ここまではよくある話だが、その下に「本因坊秀紳直筆きごう揮毫色紙を三名様にプレゼント」というお知らせがあり、高尾本因坊が「游志」と書いた色紙を持った写真が載っていた。これを見て私は目を丸くした。私がこれまであれこれ考えた挙句に決めた法名「游文」と同じような語句を高尾本因坊が誇らしげに示していたからである。碁への志とは何か。それは碁の奥義を極めるということであろう。

私は碁を勝とうとして局部的にこん根を詰めて考えることが往々にしてあるが、これはよくない。その部分を客観的に見ること、つまりは、取られそうになった石をむしろ捨て石にして外から締め付けたらどうなるかという逆転の発想、また、全局的に見てもっと重要なところはないかと考えることが大切である。すなわち、碁が上達するには常に一部分に囚われず、冷静にゆとりのある気持ちを持って大局的に考えることが重要なポイントになる。それを遊びというのだと思う。藤沢秀行氏は和漢に通じ、書を能くすると聞いているから、この「游志」という語句は藤沢氏が考えたものではないかと思われる。そして、それが偶然にも私の苦心惨憺して考えた語句と酷似したのであろう。

 広辞苑を繰ると、「遊び」の解釈の八番目に「機械の部分と部分が密着せず、その間にある程度動きうる余裕のあること。ハンドルの遊び、というような用い方をする」とある。自動車のハンドルに遊びが無いとスムーズに運転できない。人間社会が円滑に運営されるには、心のゆとりを生む「遊び」が必要であるのに、合理化とは遊びを少なくすることだと思いこんで人員や経費を削り続けた。その結果、働きざかりでうつ病や認知症になる人や自殺者が増えてきた。経済の成長は止めても、安心して生活できる世の中にしたいものだ。

このように考えると「游文」という法名に私は一段と魅力を感ずる。惚れ込んだと言ってもよい。これからは「釋游文」をペンネームとして大いに使おうと思う。そしてあ彼の世に行っても随筆を書き続けて、「しぐれ八号・九号」を上梓したいと思っているが、当然、その時は「釋游文」が本名となる。
(平成十九年九月)

私の死生観

 私は大正十三年十二月二十五日に生まれたが、戸籍上は翌十四年の一月一日生まれである。親が七日遅らせて村役場に出生届を出したからだ。従って、今年の正月元旦で満八十三歳を迎えた。

 誕生日が元旦なので、かって「明けましておめでとう」と言われることはあっても、「誕生日おめでとう」と言われたためしがなかった。ところが、今年は元旦の夜、家族との会食が済んだのち娘夫婦から「誕生日おめでとう」と祝福されて、血圧計をプレゼントされた。市役所にあるのと同じ二の腕で測るオムロン社製の立派な血圧計である。手先の方で測る器具は不正確であり、かと言って市役所へたびたび行って測るのはおっくう億劫だ。このごろ私は血圧が上がり、これからの健康維持には油断なく血圧に注意する必要があり、血圧計が家にあればいいと思っていたところだったので、まことじぎ時宣にかなった贈り物に私は娘夫婦に心底から礼を言った。
こ来し方をふり返ってみると、よくぞここまで生きてきたとしみじみ思う。

幼少年の頃はすこぶる健康であった。身体が小さいのでかくとうぎ格闘技は不得手だったが、持久力を要する競技には強かった。島商時代、全校約五百人のマラソン競走で三十番になった。運動会ではさかだ逆立ち競争の固定(長い間立っている)と移動(長い距離を歩く)で一等賞をもらった。横浜高等商業(現横浜国立大経済学部)に入り、三年生の時テニス部のキャプテンになった。対外試合に勝つために猛練習をしたため、試合には勝ったが、戦時中の食糧不足と過労により肺結核に罹った。二年近くの闘病生活の末にようやく快復したが、それ以来、こと健康に関しては自信を喪失した。六十ぐらいまで生きれば上々とさえ思っていた。

 昭和三十一年に肺結核が再発、左肺の上半分を切除した。その手術時に、アメリカから輸入された売血の中にC型肝炎のウィルスが入っていたため感染。そのウィルスが二十年の潜伏期間を経て、昭和五十年頃から活動し始め、それからは常にC型肝炎に悩まされることになった。私と同じころ同じ病院で肺結核の手術をした人の大半はC型肝炎から肝臓ガンとなり死亡した。私は医者から特効薬といわれたインターフェロンの使用を奨められたが副作用があるので使わず、健康器具のコウケントーと調和道丹田式呼吸法で危機を切り抜けてきた。しかし、加齢により体力が衰えてきたためか、七十六才の時、肺炎にかかり、更に八十歳になって肺炎が再発した。

 現在、日本の男の平均寿命は七十六歳である。小学校から大学までの私の同級生の生存率はおおよそ四〇%である。夏目漱石の『硝子戸の中』に、「多病な私が何故生き残っているのだろうか疑ってみる。あの人はどういう訳で私より先に死んだのだろうかと思う」という死生に関するくだり件があるが、私の余生もいよいよ残り少なくなってきたので、死について自分の考えをまとめてみようと思う。


「人間は正視することの出来ないものが二つある。太陽と死だ」というしんげん箴言があるが、人間は誰しもが長
生きしたいと願っている。しかし、人間に限らず、生命のあるものは必ず死ぬ時が来る。生命は永遠のものではない。そして、死ぬまでにその種を絶やさぬよう子孫をこの世に残す。このことは誰もが承知しているわけだが、自分だけはもっと長生きできないかと考える。しん秦の始皇帝はじょふく徐福に不老長寿の薬を探すことを命じたが、現代人でも長寿の薬となると血眼になって求める。

 人間の寿命は昔と較べると随分長くなった。平安時代の平均寿命は三十歳ぐらい位という。昔は乳幼児の死亡が多く、成人しても食糧不足、戦乱、流行病、風水害などで早死にした。江戸時代でも四十歳位といわれる。それが今では経済的に豊かになり、医学が進み、八十歳を超すようになった。ライオンの寿命は自然界では十年だが動物園では三十年、象は自然界では二十年だが動物園では五十年生きるという。つまり、人間は動物園で過保護に飼育されているようなものである。釈迦はきのこ茸の食あたりで八十歳で亡くなったといわれるが、現代人は八十歳になってもなおもっと生きたいと願う。かく言う私もその一人である。


 人間が長生きを願う理由は幾つかある。
①現在の生活が楽しいから、この状態をもっと続けたい。
 戦後の高度経済成長により、旅行、グルメ、スポーツ、趣味など楽しいことが前よりもずっと多くなった。死んだらこの楽しさは味わえないからと、長生きの欲望が今までより増幅した。

②死に対する精神的不安をなくしたい。

 この点についてキリスト教は「アダムとイヴが禁断の木の実を食べたことにより人間は罪を犯すようになったが、キリストがすべての人間の罪を背負って十字架で処刑されたため、人間の罪は消え、死後、すべての人の魂は天国へ行ける」と説く。クリスチャンはそれを信じているから死に対する精神的不安は何もないという。江戸時代の島原の乱で原城にたてこもったキリスト教徒が強かったのは、死を怖れなかったためだといわれる。ちなみにキリストは、ユダに密告されて捕えられ、ゴルゴダの丘の上で十字架に架けられ死んだのは三十二歳だったという。

また、キリスト教と同根のイスラム教にも同じ思想があるから、今でも平然と自爆攻撃を行っている。序でながら、四十歳でアッラーの神の最初の啓示に接したといわれるマホメット(ムハンマッド)は、以後片手にコーラン、片手に剣を振りかざしてイスラム教を流布し、アラビア半島を初めて統一し、メッカへの最後の巡礼を終えてからサウジアラビアのメディナの回教寺院で病床につき、六十一歳で息絶えたという。イスラム教徒の過激さの一因が窺われる話だ。しかし日本人にはそのような思想はない。多くの日本人は江戸時代初期にできた檀家制度により仏教に馴染み、かんぜん勧善ちょうあく懲悪の思想を漠然と持っている。誰でも多少は後ろめたい行為をするであろうから、あの世で極楽へ行けないかもしれない、と心配する人も年配の人にはいるかもしれない。

③死に直面した時の精神的苦痛をなくしたい。

 死刑が宣告された時、重大な事故が発生し一定時間経過後に死ぬことが判った時、不治の病となり一定日時後に死ぬことを告げられた時、これらの場合のように生きたいという自分の意志に反して死ななければならなくなった時、人間は精神的苦しみを感ずる。これに対して、四十七人の赤穂浪士のように切腹覚悟の場合は、討入りしてから切腹するまでの間に精神的苦痛よりも目的を達成した満足感の方が大きかったであろう。武田信玄がきえ帰依しけい恵りんじ林寺の住持となったかい快せん川じょう紹き喜は、織田信長が勝頼を攻めた時、一山の僧と共に寺の山門内に立てこもり焼死した。その時、快川和尚の作ったげ偈「あんぜん安禅必ずしも山水を用いず、しんとう心頭めっきゃく滅却すればひ火おの自ずから涼し」は有名である。猛火に包まれた快川は肉体的には大きな苦痛を受けても、自分の意志を貫く満足感により心の中には涼風が吹いていたに相違ない。この二つの場合は自ら覚悟しての死であるから精神的苦痛は少なかったと思う。けれども、北大西洋でタイタニック号が氷山と衝突して沈没する時、女性や子供を救うため自らボートを離れて波間に沈んだ男がいたというが、大部分の人はボートを奪い合って生き延びようとした。飽くなき生存欲、これがわれわれ人間の本性なのだ。

 ともあれ、四十七士や快川紹喜、タイタニック号などは稀にみる事件で、日常生活の中で私たちの周りに起こるのは、不治の病になり死期を宣告される場合などである。最近、私の妹と弟が相次いでガンで亡くなった。死期を告げられた妹の枕許で私が、「ガンになったおん恩こうじ高寺の住職の奥さんが、みほとけ御仏に生命を預けて無心に生きたところガンが治った」という話をすると、妹は「それは難しいことだけれど、私もなるべく心掛けてみます」としおらしく言い、私は心の中で泣いた。主治医から「手遅れで手術はできません」と宣告されて、診察室から出てきた弟は待合室で泣き出し、私は何と言ってなぐさめたらいいか言葉に詰まった。

 牧師はホスピスで、「キリストのしょくざい贖罪により、キリスト教徒の魂が天国へ行ける」ことを説き、信者の心を和らげるという。仏教でも浄土宗、浄土真宗は「南無阿弥陀佛と念ずれば誰でも極楽往生できる」と説く。戦国時代に一向一揆が強かったのは、それを信じた仏教徒が命を惜しまず戦ったからだといわれる。昔はそれほど仏教が民衆の生活の中に溶け込み生きていたのに、当今は僧侶がホスピスで極楽往生を説いて患者の心を安らかにさせる話なぞ殆ど聞かない。それは仏教界がしゅじょう衆生さいど済度に挺身するのをやめて、葬式という儀式を行う組織に堕落したからであろうか。それとも文明が進み、経済的に豊かになったため、もはや仏教は日本人の現実生活に適さなくなったのであろうか。

 なお別の問題だが、自分の死については諦めても、残した家族の生活が心配だという場合もある。このような精神的苦痛はどう処理したらいいのだろうか。

④ 肉体的苦痛を避けたい。

交通事故、地震、火災、風水害など不時の災害によって受ける肉体的苦痛は防ぎようがない。ふた昔ほど前までは、ガンで死ぬときは大変苦しいものとされていた。しかし、病気による肉体的苦痛は医学の進歩により相当改善された。アメリカでは痛み止めの麻薬の使用が積極的に研究され、日本の約十倍の量が使用されているという。アメリカがそうなれば近いうちに日本の医療もその水準に近づくであろう。肉体的苦痛緩和の問題は五感で確認できるものであるから、今後も更に進歩してゆくに相違ない。従ってこの問題の解決はそれほどむつかしいことではないと思う。

 事故死や病死でなく、老衰で死ぬときは肉体的苦痛がないのではないかと私は想像している。私の体験からすると、体が疲れているときは歩くよりも止まっていることを望み、止まって立っているよりも横になること、更にものを言わず静かに眠りに入ることを望むようになる。そしして眠るように逝く。自然死とはそれだと思う。私の娘のしゅうとめ姑は三年前に九十五歳で亡くなられたが、それはうらやましくなるほど見事な最期であった。新築した自宅に初めて入って仏壇の前に進み、「お陰様で、新しい家ができました」と先祖や夫の霊に感謝の祈りを捧げているうちに急に意識がなくなった。救急車で市民病院へ運ばれたが、意識を回復することなく五日後に天寿を全うされた。入院するまで健康で過ごし、家族に看病の手数を煩わすことなく、また死の不安とか苦痛など一切感ずることなく安らかにこの世を去る。私もこのような死に方をしたいと願っている。

 自然死の場合は肉体的には勿論のこと、精神的にも苦痛がないのではなかろうか。健康な人が疲れて休むときは、この世の苦労も何もかも忘れて自然に眠りに入る。と同様に、忘我の状態で眠るようにあの世へ旅立つのではないだろうか。健康であれば死ぬとき苦痛はなく、病気になっても医学の進歩で苦痛が緩和されるとすれば、死の肉体的苦痛を避けることはそれほどむつかしい問題ではないと思う。


 人間が長生きしたい理由を思いつくまま四つに分けて述べてみたが、私は更にこのように考える。

 人間の欲望はきりがない。もっと楽しいことはないかと追い求め、世界中の珍しい所へ行きたがる。金はいくらかかってもいいから、宇宙旅行をしたいというアメリカ人がいると聞いた。しかし楽しさには自ら限度があり、人間は変化を求める。龍宮城へ行った浦島太郎は毎日のように珍味を食べ、鯛やひらめの舞い踊りを楽しみ、絶世の美人の乙姫様にかしずかれても、結局は飽いて故郷へ帰りたくなった。神が人間に与えた最も大きな変化が死である。すべての生物が子孫を残して個体は死ぬというシステムを定めたのは神の英知であり素晴らしいことだと思う。マラソン競走も四二・一九五キロという終点があるからこそ人は走る。ゴールがなければ走ろうとしないに違いない。人生のゴールである死を、もつと積極的な意味で率直に受け入れた方がいいのではないだろうか。とは言っても、正直なところ大概の人は、歳を重ねていつか死ぬことは分っていても、『今』死にたくないのだ。

 誰も死を経験した人はなく未知の問題であるがために、死の恐怖に対して漠然とした不安はあっても、つかみ所がないので突き詰めて考えようとしない。それに現代人は忙しく、特に若い人は元気だから死について考えることは殆どないだろう。年配の人も死については病気勝ちの人が考えることで、健康でいるうちは無関心でいられる。
 また、死に直面した時、精神的苦痛をなくすのは困難であるが、できるだけの防止策は講じるべきだろう。ただし、それが不可能な場合がある。島田事件(久子ちゃん殺し)の赤堀さんのように、えんざい冤罪で死刑の宣告をうけることがあり、私のように輸血の中にC型肝炎のウィルスが入っていて感染する場合もある。タイタニック号の大方の乗客は沈没を避けようがなかった。しかし、酒や煙草をのみ過ぎてガンになることなどは自制心によって避けられる。つまり、防止策のとれない死に直面するのは運という他ない。その時には、自分に定められた運命と思って生を諦め、魂の救済に安心を求める以外に方法はない。この場合、それは心の持ち方の問題であるから宗教が大きな役割を果たすと思う。その点、キリスト教徒や仏教徒には救いがある。けれども、多くの日本人は無宗教で、中には「人は死ぬと全てが終わりで、肉体だけでなく魂も残らない」という人もあり、人びとの死生観は多種多様、千差万別であるから、死の精神的苦痛の解決策は各人で考えるしかない。

 私は無宗教なので、天国や極楽のことには考えが及ばない。死生観については、随筆集しぐれ五号と六号の中に次のように記述した。

 約百五十億年前、ビッグバン(宇宙の大爆発)によって地球が生まれ、その後、地球に生物が発生し、百五十万年前に人間の祖先が生じた。人間はもともと宇宙即ち虚空から来た旅人であり、死ぬということは魂が生まれ故郷の虚空へ帰ることである。人間は死ぬと肉体は無くなるが、魂は生きている。この世の中に、その人のことを思ってくれる人が一人でも生きているうちは、その人の霊魂はこの世に留まっている。そして、思ってくれる人が居なくなると、懐かしい生まれ故郷の宇宙へ帰る。

 一月二十一日付朝日新聞の天声人語欄に「アフリカ先住民のある部族には、死者を二通りに分ける風習があるという。人が死んでも、その生前を知る人が生きているうちは、死んだことにはならない。生者が心の中に呼び起こすことができるからだ。記憶する人も死に絶えてしまったとき、死者は真に死者になるのだという」とあった。世の中には、私と同じ考えをする人たちがいるのだ、と心強く思った。

 人は自分の魂がなるべく長くこの世に留まっていたいと願うから、現世の人に自分を思い出してもらうよすが縁(手がかり)となるように墓をつくる。金持は銅像を作ったり記念碑を建てたりもする。また、絵の好きな人は絵を残して、縁とする。私は随筆集を残す。今年は年末に「しぐれ7号」を上梓する予定である。

 私には三歳上の兄がいる。彼は庭いじりが好きで自宅の庭木や盆栽の手入れに余念がなかった。そうした健康的な生活のためか今まで元気に過ごしてきたが、昨年の初秋、血圧が少し高いと言い、そして暮れに脳梗塞で入院した。私も昨年十一月の終わりごろ、体に不調を感じ、市役所の血圧計で測ったところ最高血圧が二〇〇を超えていた。体調を整えて十日後に測ると一四〇に下がったので安心し、改めて健康第一の生活にしようと固く決意した。しかし、後が悪かった。根が酒好きな性分なので、忘年会を三つこなし、C型肝炎を気にしながらも酒を飲み、またもや二〇〇を超えた。人間の決意が行動と結びつくとは必ずしも決まっていない、とつくづく思った。
 

 これから私の心掛けるべきことは、平凡なことだが、とにかく持病と上手に付き合うことだ。健康に気をつけて自然死すれば娘婿の母親のような安らかな死に方ができると思う。また、精神的な苦しみがあったとしても最小限で済む。毎日自分のしたいことを気ままにやって、死ぬことなど忘れていることが一番だと思いながら、一日一日を過ごせればこれ以上の果報はない。                        

 私の居間には、「てんじゅ天寿のいき之域」と書いたおきろつぽうしょ沖六鵬書のへんがく扁額が掲げてある。天寿の域とは、「自分の寿命はすっかり天帝に預け、心から悠々自適の生活を楽しむ心境に達すること」の意ではないかと思う。

(平成十九年一月)