2008年5月31日土曜日

庭木の土 4

 れから二ヶ月が過ぎた七月三十一日、総合庁舎のハローワークY課長に会い、「あの話はどうなりましたか」と訊くと、彼女の顔に笑みが浮かんだので、これはうまくいったのかなと思った。

Y課長は私の助言どおりに書面で上級官庁の静岡労働局へ上申した。局ではさっそく複数の業者から緑地の土を全部入れ替える相見積もりを取ったが、予想を上回る費用がかかるため、これはできないとした。そこで改めて、表土が側壁の高さより四センチほど低いので、植栽用の土を嵩上げする相見積もりをとった。それでも相当な金額になり、その予算がないため、中央の厚生労働省へ申請したという。

「いつ予算が付くか分かりませんが、益田さんのお陰でこれだけのことができ、私も職責を果たすことができました。本当に有り難うございました」とY課長から丁重な礼を言われた。

樹木を育てて環境をよくしようという私の小さな願いが実現するかもしれないと思い、私は嬉しさがこみあげてきた。「課長さん。予算が取れて土を入れても、それで終わったわけではないですよ。木は只では大きくなりません。剪定、施肥、消毒、除草などの予算を毎年とって、しっかり育ててください。」そう念を押して、ハローワークを後にした。

 八月二日午後、私はKさんを中電前の現場へ案内し、いろいろと教えていただいた。「この八本の木はハナミズキです。葉が枯れたのはアメリカシロヒトリのためです。消毒しなければなりませんが、この虫は樹勢が弱まるとつきます。この木はだいぶ弱っていますから、消毒してもいずれ枯れるでしょう。

バラも島田市の花だから植えたと思いますが、この土は植栽土ではないので、じきに枯れるでしょう。西側寄りのバラはもう駄目ですね。植栽用の土と入れ替えない限り、何を植えても枯れてしまいます。

造園した場合「かし瑕疵補償」という制度があって、業者は、植えた木が翌年枯れたら無料で植え替えますが、ここはもう五年も経っているから無料とはいかないでしょう。しかし、契約通りの植栽土を入れなかった手抜き工事が根本原因だということになれば、期間の定めなく業者に責任があるかもしれません。

むずかしい問題です。」何れにせよ簡単に解決できる、ことではないようだ。

2008年5月28日水曜日

庭木の土 3

 私と懇意な間柄のO建設社長Kさんは造園に関する資格を持ち、植栽についての造詣が深い。彼にこの問題についての意見を訊いてみた。

「庭木を植える際、下の半分くらい瓦礫を入れるのは、土壌の栄養分を少なくして木が大きくなりすぎないようにするためですか、それとも造園コストを下げるためですか。」
「それは後者です。造園業者が儲けるためです。」 まさかと思っていた返事が戻ってきた。
「では、木が大きくならないようにするにはどうすればいいのですか。」
「剪定すればいいのです。」 なるほど、これは尤もだ。

「総合庁舎玄関前のように密植した理由は?」
「一本植えると幾らという工事見積もりになっていますから、なるべく沢山植えたほうが造園業者は儲かるからです」 矢張り、疑っていたとおりだ。

「密植するとどうなりますか」
「木が大きくなって葉が繁ると風通しが悪くなり蒸れて枯れます。また、虫が発生しやすくなって枯れます。」 これはずぶの素人でも容易に理解できる当然な話である。

 私は考え込んでしまった。木が枯れると分かっていても、見えないところだからいいだろうとばかりに、下に瓦礫を入れる。

三、四年後には過密となって間引きしなければならいことが明らかに予測できても、その頃になれば工事責任を問われないから良しとして、造園業者は今の時点で現実に儲けるために密植する。そこには企業モラルの欠片すら見当たらない。

 商売っ気もここまで堕ちれば、何をか言わんやである。

2008年5月26日月曜日

庭木の土 2

 中電営業所の方は総合庁舎よりも状況が更に悪い。総合庁舎と同様に緑地の周りに高さ三十センチほどのコンクリート壁をつくり、その中に半分ほど工事の残土のような砂礫を入れ、その上にとても植栽用の土とは思えない小石混じりの土砂を重ねて入れた。

そのため小石が沢山露出している。これでは樹木が育たないだろうと思ったが、矢張り三年経った平成十七年には最も目立つ正面道路沿いの草花が全部枯れ、植え替えた。島田市の花ということなのか今度はバラを植えたが、土はそのままだったので西寄りの四分の一ほどは又もや枯れて空地ができている。

高さ四・五メートルほどの落葉樹が八本植えられたが、そのうち三本は虫が食い葉が萎れて枯れかかっている。また、西側の総合庁舎との境の緑地に三十本余り植えた木のうち数本が枯れ、六本ほど植え替えたが、うち二本は早くも枯れてしまった。

 中電のような大きなしっかりしているはずの会社が、どうしてこんなぶざま無様な姿を世間にさらしているのか奇妙に思った。この会社には緑地専門の管理者はいないのだろうか。いや、この営業所の従業員だけでも相当な人数がいるはずだが、正面玄関先の職場の顔にあたるところの木が枯れかかっているのに、誰ひとり気付かないのは何故だろうか。気付いていても知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいるのかもしれない。

 六月一日、私は中電島田営業所に行った。あいにく担当者がいないというので営業課副長のBさんに会った。彼を伴い現場で状況を説明したところ、Bさんは今まで職場の植木をじっくり観察したことがないとのことで、「なるほどこれはひどい。早速担当者に報告します。」と言った。

その後、六月十四日に担当者という人から「庭木のことはしっかりやりますからお任せください。有難うございました。」との電話があった。

2008年5月24日土曜日

庭木の土 1

わが家の前の市道を西へ一四〇メートルほど行くと、南側に中部電力があり、その西隣にハローワークと労働基準監督署の入っている総合庁舎がある。平成十四年四月に相次いで竣工した。それぞれに広い駐車場があって、緑地には樹木や草花が植えてある。

都市計画法の関係で、道路に接した敷地は二メートル程の幅で市に提供され、新しく歩道ができた。私はその歩道を毎日散歩する。かっては某社の資材置場と空地で、ゴミが捨ててあったり雑草が生えていたりしていたが、明るい近代的な建物ができたため環境がよくなり、散歩するにも大変気分がよくなった。

ところが、この二つの施設の植木や草花に同じような異変が生じてきた。私は散歩がてら工事の進捗状況をつぶさに見ていたので、異変発生については当初から危惧していた。

 平成十三年に労働総合庁舎の建物工事が着手され、それがほぼ出来上がった頃から周りの緑地工事が始まった。緑地を囲う高さ三五センチほどのコンクリートブロックが埋められた時、深さが少し足りないようだが、このくらい土を入れればまあよかろうと思った。

ところが、次に行ったとき見ると、工事用の残土と思われるような瓦礫混じりの土砂が半分ほど入っていたので、これはどうするのだろうと注意深く見守ることにした。そして二、三日後に行くと、その上に植栽土を入れて高さ四〇センチほどの若木が植えてあった。

私が見たところ、表土はコンクリート壁よりも三センチくらい低いから植木用の土は一二センチほどしか
ない計算になる。植木は今は小さくても成長して大きくなった時には栄養不足、水不足で枯れるのではないかと心配になった。

また、東側の中電営業所との境界に沿って一列に三〇センチ間隔で植樹してあったが、これでは間隔がせますぎる。少し大きくなったら間引きするつもりなのだろうか。さらに、東側の入り口近くに四〇平方メートルほどの緑地が三か所あって、高さ四〇センチほどの若木がこれまた三〇センチ間隔でびっしり植えてあった。

どうしてこんなに密植するのだろう、これでは生育の障害になるのではないかと思った。それから五年経ち、東側入り口の緑地の植木は高さが一・四メートル位に成長し、案の定、枝が重なって通風が悪くなっていた。

これについて総合庁舎の担当者はどのように考えているのかと思い、本年五月三十一日、一階のハローワークへ行き、担当の女性の管理課長Y氏に会い、私は来意を率直に述べた。

「私は毎日この前の道を散歩していますが、道路沿いの緑地は美しく、生き生きとしていてもらいたいと思います。この庁舎は民間企業ではないのでメセナ(芸術や文化活動に対する企業の支援と擁護)を問題にすることはないと思いますが、公共施設も地域・社会から好かれる存在であってほしいと思います。」

「はい、私どももそう思っています。この建物の屋上には太陽熱利用の温水器を設置していますが、これは地球にやさしく地域社会に役立ちたいという考えのあらわれです。」

「私はこの建物の工事を最初から見ておりますが、植木の根元の土が少ないのが心配です。今までよく木が枯れなかったですねー」

「いいえ、放っておけば枯れたでしょう。去年の夏は暑さが厳しかったので、私が毎日撒水していました。」 私はびっくりした。

管理課長が自ら撒水しないと植木が枯れるということは正常ではない。〝撒水は私の仕事ではない〟と考える管理課長が着任したら忽ち木は枯れてしまう。お節介とは思ったけれど成り行きで、私が「これは土全体を入れ替える必要があるかもしれない大きな問題です。すぐに所長に話して上部へ働きかけ早急に対策を立ててもらったほうがいいですよ。

そのときは口頭ではなく文書ではっきり伝えてください。そうすれば、あなたとしては自分のなすべきことはしたという証拠になります。あとから、責任を問われることもなくなります。」と助言すると、課長は「分かりました。

予算がなくてできないと言われるかもしれませんが、そうします。」と応答した。私は、これは簡単にはいかない問題かもしれない、と思いながら総合庁舎を出た。

2008年5月23日金曜日

玄米食への挑戦 3

 玄米食は一応順調に始まった。ところが一週間過ぎたころ、四年前と同じようにまたまた食欲がなくなり、安眠できず、気だるくなってきた。前回の最大原因は夏ばてだと思うが、今回は冬季である。首を捻ったところで原因が判るはずはない。

 結局、変わった条件は玄米食しかないから、前回同様に玄米食を止めることにした。スーパーへ行って白米を一キロ買ってきて食べ始めると二日後に元気が戻った。玄米がまだ一キロ余っている。捨てる訳にもいかないから、買った米屋で事情を話して七分搗きに精米してもらった。

 それから一カ月ほど過ぎたが、どう考えてもなぜ体調が悪くなったか分からない。とにかくもう一度だけ玄米に挑戦することにした。そして敷居が高かったけれどくだん件の米屋へ行き、玄米を求めた。

 「おや、あなたは先日玄米を精米した方ですよね。また玄米をお買いになるのですか」「はい。も一度玄米食をやってみようと思って」「今度は大丈夫ですか」 米屋のおかみさんは不安そうな顔をしながら売ってくれた。

 帰りにスーパーに立ち寄ってみたところ、「減農薬玄米」が棚に並んでいた。これならここで買えばよかったと思ったが、同時に玄米を食べる人が増えてきたんだなと感じた。それ以後、玄米食は順調に続き、既に四カ月が経過した。この分では私の食生活に玄米食は定着するのではないかと思う。

 私は玄米食が健康のためにいいと思っているが、同調する人も案外多いと思う。にも拘らず、大方の人が玄米食にしないのは、慣習と白米の方が美味しいという先入観からではないだろうか。これまで玄米が敬遠されてきた最大原因は炊くのに手間がかかることであったが、現在では白米を炊くのと殆ど同様になったから根拠が無くなった。

 白米のほうが旨いことは確かだが、玄米をゆっくり噛んで食べていると白米にない美味しさを感じる。玄米のほうが体にいいと思いながら食べるのも、玄米の旨さを増す一因になると思う。従来、玄米は固いから食べにくいという印象があったが、現在の炊飯器で炊いたものには固さが感じられない。

 白米は栄養分が取り除かれているからとの理由で、七分搗きや五分搗き米を食べる人がいるが、そこまできたらいっそのこと玄米食にしたらどうだろうか。 健康を志向する日本人にとって、玄米食は今後の食生活改善の重要なポイントになると思う。

2008年5月22日木曜日

玄米食への挑戦 2

 妻と二人暮らしのときは五合炊きの電気釜を使っていたが、二年前から私ひとりになるとそれでは大き過ぎた。そのため昨年八月、二合炊きの小型の電気炊飯器を買った。二合炊ければ子供や孫たちと五人くらいの食事にも間に合う。

 そして、ひとりで少量欲しい時は五勺でも美味しく炊ける。それにこの炊飯器は、白米、早炊き、無洗米、浸し米、おかゆ、玄米、発芽玄米の七種類に使用ができる。体調が悪い時、かゆを欲しいことも予想されるので、早速かゆを炊いてみると美味しくでき、大変重宝である。

 私は理由のないもの、納得のいかないことは、おおやけの公のことでもわたくしごと私事でも、とことん追及しようとする性分である。五年前、玄米食に二回目の挑戦をして体調を崩し、応急措置として中止したが、このままでは、体調を不良にした首謀者が玄米食であるという疑惑が残されたままである。

 玄米食に好意を持っている私にとって、それは不憫に思われてならない。今年に入り新しい電気釜の炊飯用途の中に玄米があるのに関心を持ち、玄米首謀者疑惑を否定できるか試してみようと思い立った。さて今度は三回目で、恐らく最後の挑戦となるであろう。

 新しい器具を買うわけではないので経済的な負担はないが、これまでと同じ失敗を繰り返さないように慎重に進めた。 玄米は固いから、柔らかくする装置が必要である。今までに用いた玄米用の炊飯器は圧力を加え高温にするために頑丈に作られているが、この小型の電気釜では圧力がかけられるとは思えない。

そこで器具の取り扱い説明書を読んでみると、炊飯時間が白米は約四十八分であるのに対して、玄米はなんと約二時間と書いてあった。つまり、圧力をかけて高温にして炊くのではなく、時間を長くかけることによって柔らかくするのである。更に米の種類や何をつくるかでも炊飯時間が異なり、早炊きは三十八分、浸し米は三十四分、おかゆ六十分、発芽玄米七十五分と細かく指定されていた。

 圧力鍋でなくても玄米が炊ける理由が判ったので、とにかく実践してみようと思い、近くの米屋に行った。店のおかみさんの話ではこのごろ玄米を食べる人が増えているようだ。一度に沢山買って食べ切れずに残っても困るので、言いにくかったが僅か五合だけ売っていただいた。

 普段は七分搗きを食べており、柔らかく炊くために米一合に対し水二合を入れているので、それを基準として、玄米一合に対し水三合を入れて炊いてみた。その後、水を増したり減らしたり、米を五勺にしたりして炊いてみたが、最初の分量がベストで、おおむね私の納得するご飯ができた。

「よし、これならいける」と思い、米屋へ行って減農薬玄米二キロを買ってきた。

2008年5月21日水曜日

玄米食への挑戦 1

 かねてから私は玄米食に関心があった。精白米はその殆どが糖質(デンプン)で、白米を常食しているとビタミンB1欠乏症に陥り脚気になる恐れがあるが、玄米は沢山のビタミンB1と、ビタミンE、ナイアシン、リン、カリウム、亜鉛、銅、食物繊維などを含んいて、健康に適しているからである。

 とにかく試してみようと思い立ち、平成十一年十二月に、アサヒ軽金属工業製の圧力鍋を買い求めた。この圧力鍋は一・四五気圧、沸点一二八度で、玄米を炊く以外の調理にも使える多目的のものである。ところが、せっかく買ったのに今まで一度も使ったことがない。

 理由の第一は手数がかかることである。一般的な炊飯器と違い、私の買った圧力鍋はガスで炊くために、時間の経過に応じてガスを弱めたり止めたり調節しなければならない。第二の理由は家族の合意が得られないと二種類の炊飯をすることになる。妻との二人暮らしで、玄米と七分搗き米を別々に炊くのは実に煩わしい。

 詰まるところ、この時は圧力鍋まで購入しながら実行に至らなかったのだ。 二回目の玄米食への挑戦は平成十四年七月で、鳥取三洋製の発芽玄米圧力沸騰炊飯器によるものである。この炊飯器には①普通の電気釜のように自動的に炊ける②沸騰しても余分な蒸気だけを排出し「おねば」が外へふきこぼれないようにして内部に溜める、という特徴があった。

 私はこれを購入し、玄米の炊飯を妻の手を煩わせずに自分でやることにした。そして、玄米食をはじめてから、①よく噛んで食べるようになった。玄米は柔らかく炊いても繊維質があるからよく噛まざるを得ない②玄米にはこくがあり白米にない旨みがある③食べ過ぎなくなった。

 よく噛むためか食事の量は減るが、満腹感がある――などを実感した。 滑り出しは快食、快便、快眠でまことに申し分がなかった。ところが、万事順調にゆくだろうと思っていた矢先、八月に入って急に食欲がなくなり熟睡できなくなった。

 体がだるく、体重も二キロ減って四十一キロになり、楽しみにしていた週末の碁会所へ行く気力もなく
なった。体の変調の原因を思い悩んだ末、もしかしたら玄米の所為かと疑い、元の七分搗き米に戻し腹八分を徹底したところ、安眠できるようになって、体力も次第に回復してきた。

 その後、落ち着いてから考えてみると、体調不良の原因は玄米、過食、C型肝炎、夏ばて、加齢などがごっちゃ混ぜになっていたようではあるが、最大の原因は異常な暑さによる夏ばてに違いない、と推測した。

 結局、玄米と七分搗き米とを別々に炊くのはやはり面倒なので、玄米を止めて、当分は七分搗き米だけにすることにした。かくして、第二回目の玄米食挑戦は二カ月足らずで終わった。

2008年5月20日火曜日

消火器 3

昭和三十八、九年の頃だったと思うが、夏の或る日の午後、風呂敷包みを背負った一人の男がわが家を訪れた。「私は奄美大島の者で大島つむぎ紬を売りに来ました。家から連絡があって急に帰らなければならないので、残った三反を安くして早く処分したい」と言う。

私はその頃、いい着物を一枚欲しいと思っていた矢先だったので乗り気になった。彼は「これは本場の大島で作られたもので、泥の中でしっかりもみ込んであるから、この通りいい色でしょう。普通は一反十五万円ですが、今日は特別だから十万円でいい」と言葉巧みに畳み掛ける。

私は紬の見方や相場等についていっぱしの質問をしたが、もともと基礎知識が乏しいのだから商談は一向に進捗しない。傍らの妻も反物のことは皆目わからないと言う。結局、言い値より一万円ほど安くさせて買い求めたが、後日、知合いの呉服屋に見てもらったところ、何とにせもの偽物で、しかも島田市内で買うより二割くらい高かった。

訪問販売の場合は品質と相場の分からない商品が多く、消費者の無知につけこんで、今買わないと損ですよという気持にさせて買わせる。考える時間、情報を手に入れる時間を与えないのが彼らの常套手段で、購買意欲を巧みに刺激する。私は大島紬にこ懲りて以後訪問販売には注意するようになった。

このたびの消火器の場合は、営業マンをしばらく待たせて島田防災設備へ問い合わせるべきであった。③の「値段が高いと思ったら買わないこと」は、一度経験してほぞ臍を噛めば後はほぼ実行できる。しかし、②の「不要なものは早く処分する」ことはなかなか出来そうでできない。

私の場合、数年前に家を建て替えるため引っ越す時、不要品や使用しないものをかなり沢山処分した。もっと早く処分すれば狭いと思った家をもっと広く使え、欲しいものを探す時間を節約できたのにと思ったが、万事、『勿体無い』という時代を生きてきた私たち夫婦には、それができなかったのである。                                  

(平成十七年一月)

2008年5月19日月曜日

消火器 2

 営業マンが帰ってから、念のために中溝町にある島田防災設備㈱に電話で問い合わせてみると、薬剤質量三キロの新品は八〇〇〇円、詰め替え五〇〇〇円、処分費八〇〇円であった。営業マンの言う金額が不当に高いと思った私の直感は当たっていた。

         栄広プロビジョン               島田防災設備
 新品   一本  一五〇〇〇円(特価九五〇〇円)   八〇〇〇円         
詰め替え 一本   七五〇〇円               五〇〇〇円 
処分費  一本   一五〇〇円                 八〇〇円

 結局私は、新品で一五〇〇円高いものを買い、その上、処分費で七〇〇円も余計に支払うところであった。 更に念のためインターネットで調べてみると、薬剤質量三キロの同じ消火器(富田工業製)が定価一六八〇〇円、大特価三一五〇円とあった。

 このような表示を見ると、一体どれが正常な価格か消費者は戸惑ってしまう。 数日経って処分する二本を取り出してよく見ると、製造年が一九八八年と一九九九年であった。

また、九九年型と新品の〇四年型を比較してみたら、消火力単位、放射距離、耐圧試験圧力値、薬剤質量、総重量は同じであるが、放射時間は九九年が約十四秒、〇四年型は約十五秒であった。薬剤の総量が同じで、放射時間が一秒長くなったのだから、一時に放出する量は少なくなることになる。

これでは性能が良くなったとは到底考えられない。営業マンの説明はあてにならないとつくづく思った。 そして、この消火器の購入をめぐって、

①消火器の本数と置き場所は、自分だけでなく家族全員がいつも覚えていなければならない。出火の際、消火器を探し出すまで火は待っていてくれないのだから、詰め替えに来た営業マンから言われて探すということ自体が間違っている。われながら恥ずかしい限りだ

②物置にあった八八年型の期限切れ消火器は早く処分すべきであった。火災発生のさい使おうとして作動しないと損害が大きくなるから却って無い方がいい。これも分かりきった当然のことなのに、なぜ私は処分しなかったのだろう

③値段が高いと思ったら買わないことである――と反省した。

2008年5月18日日曜日

消火器 1

 十月初め、ある消火器販売会社から消火器の詰め替えを知らせる葉書が届いた。私の町内では毎年九月と十二月に防災訓練を行っているが、二十年ほど前の訓練のとき、粉末消火器を使用して火を消す実演があった。私はその消火能力を納得して、防災委員長の奨めるままに栄広の消火器を買った。

中身の薬品の有効期間が五年なので以来、五年毎に詰め替えに来ていたようだ。葉書を見て、もう五年経ったのか早いものだ、と思った。 一週間ほど経ち、営業マンが来て「詰め替えの時期になったので参りました」と言った。

私が玄関の隅に置いてあった消火器を出すと、彼は「他にもあるでしょう」という。そう言われて、あちこち探したすえ物置の隅に一本あるのを見つけた。更にもう一本あるかもしれないと思って探したが分からなかった。

締まらない話だが、私は置き場所だけでなく、わが家に消火器が何本あるのかも忘れてしまっていたのである。 詰め替え料金は一本七五〇〇円で、ちょっと高すぎるような気がした。

せっかく費用をかけても、置き忘れてしまうようでは所詮無駄なので、これからは一本にして台所に置くことにしようと思った。

営業マンに私の考えを伝えると、彼は、「一本だけなら新品はどうでしょうか。新品は一本一五〇〇〇円ですが、今は特別売り出し期間中なので九、五〇〇円です。詰め替えと二〇〇〇円違いで新品になります。新品は一段と性能がよくなっています」と言う。

「何が良くなったんですか」「高さが低くなり直径が太くなりました。薬品の容量は同じですが、一時に放出する量を多くしたので消火能力が強くなっています。」 それで果たして性能がよくなったと言えるかどうかよく分からない。

また、一五〇〇〇円のものを何故五五〇〇円も値引きできるのかも解らないが、詰め替えて長く放置するとホースの部分が劣化しているかもしれないと思い、新品を一本買うことにした。

そして、「古い二本を持って行って下さい」と言うと、「処分費用が一本一五〇〇円かかります」と言い、「一本は差し替えだから無料でしょう」と言ったら、「駄目です」とのことであった。処分費用がどうも高いと思ったので、自分で処分することにした。

2008年5月17日土曜日

抽象画の美 4

〔抽象画をどのように考えたらいいか〕 浜名湖の花博には印象派の巨匠モネが愛した魂のアトリエともいうべき「モネの庭」というコーナーが設けられた。印象派の作家たちは「自然は作者自身の感覚が現場でとらえたそのときの印象として描くべきだ」と考え、従来の絵画に比べると大胆でスピード感のあるタッチになった。

しかし、印象派が生まれた一八七〇年代の初めの頃には印象派の絵は画壇からも一般観衆からもさんざんな酷評をうけた。現在では高く評価されている印象派の画法も当時の画壇の最先端を行くものであっただけにこと画壇に限らず、風あたりも強かったのであろう。現状を変革しようとすると、必ず、それに反対し批判するものが出てくる。

印象派は今までの画法とそれほど違わないのに、ただ印象を重視する画法であるというだけで相当な抵抗をうけたのである。ま況して抽象画は、心に感ずるもの、四次元の世界という、今までと全く異なるものを表現しようとするのであるから、一般観衆に理解されにくいのは至極当然である。

 とは言え、物理学の四次元の世界についてはどのように説明されてもむずかしいが、抽象画を観るのは感覚の問題であるから、基本的なものをマスターしさえすれば観る者の意欲と素質次第で案外らくに入ってゆけるらしい。

 ある手引書には抽象画の理解の仕方についてあらまし次のように記している。一、抽象画が分かりにくい理由は、時代の最先端ともいうべき点にある。二、作者の動機や意図を知る方がいい。それが分からなくても、よく観ることによって、作品から何かを感じとり、鑑賞者自身が独自に分析し、解釈を試みることが必要である。作品の画題が絵を理解するヒントになる。三、抽象画について多少の知識を持ち合わせること。作品の解説を聞いたり、一般人向けの平易な評論やテレビの美術番組を見ること。四、現代社会では「労働と時間のかけ具合と価値は比例するものだ。遊び心で造ったものは価値がない」という感覚が主になっているが、抽象画の評価基準は、これとは全く別である。

 私は、抽象画を理解するにはこれらの努力の他にある程度の素質が必要ではないかと思う。

 ある日、Nさんとその絵画の師Sさんが拙宅を訪れたので、しばらく抽象画について雑談した。Sさんに前述した抽象画「白に白」の写真を見せると、「私は感じます」と言われた。なるほど流石はプロ、画家とはそういうものかと思った。念のためNさんの絵画について訊ねると、「これは抽象画ではありません。抽象画もどきの写実画です」とずばり言われた。Nさんも神妙に耳を傾けていたが、なるほどNさんが自らの作品を半具象画という理由が分かったような気がした。

「追記」Nさんが自画像をモチーフにしてデフォルメした五十号の作品は、画壇への登竜門である二〇〇五(平成十七)年秋の二科会の展覧会に、また、別の作品も平成十八年度静岡県芸術祭絵画の部に、それぞれ入選を果たした。                   

2008年5月16日金曜日

抽象画の美 3

〔人間は何故抽象画を描くようになったか。〕 眼(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、舌(味覚)、皮膚(触覚)に感ずるものを五官といい、五感のほかにあるとされる感覚で鋭く物事の本質をつかむ心のはたらきを第六感という。人間は太古から五官の中の眼によって存在を確認したもの―風景、人物、動物など―を描いてきたが、一九世紀の終わり頃から一部の画家は第六感の心に映じた喜怒哀楽のイメージをも描くようになった。しかし心に感ずるイメージには形がないから、必然的に抽象的な表現にならざるをえない。人間は本来、未知なもの、新しいものに挑戦しようとする意欲を持っているので、抽象画が発生したことは自然の流れであると思う。これが抽象画を描くようになった第一の原因であろう。

 次に第二の原因は、人間が四次元の世界を絵に表現しようとしたからではないだろうか。一九〇五年、アインシュタインは相対性理論を首唱した。四次元の世界とは、われわれの認識する空間のように、連続体の広がりの次元が三つあるとする理論に、時間の一次元を加えた時空間をさす。相対性理論によれば、物理法則は四次元空間の中で記述されなければならない、とする。これによって物理学は飛躍的に進歩した。私は、抽象画は絵画の世界に於ける三次元から四次元への変化であると考える。

即ち写実画は三次元の世界を描き、抽象画は四次元の世界を描くものと言えよう。三次元は、私たちが日常現実に目で見ている世界である。これは静止しているから誰にも容易に描ける。ところが四次元の世界ではこれに時間が加わり、時間の経過によって状況が変化するから、その変化する状況を静止した形の画面に表現することはむずかしい。例えば、鳥が飛んでいるところを描く場合、周囲の風景が固定している絵の中に飛翔の位置が時々刻々変化する鳥を幾つも描かなければならなくなる。それでは絵にならないから全く異なった表現になる。飛躍していえば、このように鳥の飛んでゆく姿をイメージとして絵に表現したいと考えたことが、抽象画のそもそもの誕生原因ではないのだろうか。

 動いている状態を総体的に捉えた画家の心に浮かぶ映像を描くこと―。それは、大都会の騒音に満ちた迷路、生物の胎内的な世界、おびただしい星座の移動、季節の実りと枯渇、ハイウェイでの疾走、太陽に光る潮、芳香、等などであるかもしれない。何れにしてもそれらは動いているものであるから、三次元時代とは全く異なる感覚で表現しなければならないわけである。

  しかも、その抽象画の表現方法には具象的なものによる方法と具象的なものを使わない方法の二つがあるといわれる。一九三七年四月二十六日、スペインの内戦に際して反乱軍を支援したナチス・ドイツ空軍が、スペイン北部の小さな町ゲルニカを無差別爆撃し多くの市民が犠牲になった。その蛮行に憤り、抗議するため、ピカソ(一八八二~一九七三)は二十世紀最高の傑作といわれる「ゲルニカ」を描き、同年のパリ万博スペイン館に出品、絶賛を博した。叫ぶ女や母子、牛・馬などが縦三・四五メートル、横七・七六メートルのモノトーンの大画面にひしめく大作で、現在はマドリッドのソフィア王妃芸術センターに常設展示されている。

角の生えた顔や化け物のような手をした不気味な人間など百鬼やぎょう夜行を思わせる超現実的な抽象画で一寸とっつきにくいが、、よく鑑賞すれば絵心のない人でも、市民の怒りをひしひしと感じ、なお大量虐殺を続ける人類の暗部を映す鏡のように見える、という。私の知人のM君は、地雷によって片足を無くした少年を描いて戦争の悲惨さを訴える反戦思想を表現した。抽象画でもこのように具象的なものが描かれていれば、作者の表現しようとする意図を私のような素人でもイメージし易い。

しかしすべてを抽象的な表現によって描かれた抽象画は、観る者が作者と同じ第六感を持たなければ、たとえ画題が明記されていても、何が表現されているのか見当もつかない。例えばロシア人カジミール・マレーヴィチは一九一八年に「白に白」という抽象画を描いたが、それは白い下地の画面にほんの少し色の濃い白い四角な形が描いてあるものである。フランス人の画家アルフォンス・アレーは一八八三年に真っ白な紙を、「雪の中で初めて聖体を拝領する貧血の少女」と題して、パリーの展覧会に出品した。それから一年後、今度は真っ赤な紙を展示して、「紅海沿岸でトマトを収獲する高血圧で赤ら顔のすうき枢機きょう卿」と名付けた。このような抽象画を観た時、たいがいの人には画題名を読んでも、これが何を表現しようとしているのか分かりにくいし、また何の感動も湧かないであろう。

2008年5月15日木曜日

抽象画の美 2

しかし私にとっては、なぜ白い壁を赤くしたのか、真っ直ぐな手すりを何故わざわざ曲げたのかが不可解なので、その点にひっかかって、残念ながらNさんの絵には美を感じたり感動をうけたりしなかった。そして、世の中にはこのような抽象画を観て美しいと思う人がかなりいることを不思議に思った。

 絵画は写実画でも写真のように実物と殆ど同じように描けばいいというのでなく、作者の表現したい点を強調して描くものだ。況んや抽象画は表現が元来抽象的なのであるから、作者の描こうとするイメージがはっきりしていて、鑑賞する人にそれがスムーズに伝わらなければならないのではないかと思う。鉄筋コンクリートの建築物といえば冷酷、無愛想、孤独、頑固などを連想させるが、いったいNさんは何を表現しようとしたのだろうか。

後日、その点をNさんに訊くと、「この作品は抽象画ではなく半具象画というべきもので、私の心のなかに生じたイメージをディフォルメして現代人の抱く不安感を描いたつもりですが、まだ未熟なのでー」と言われたが、抽象画ではなく、半具象画というジャンルがあることを私ははじめて知った。

 そもそも絵画は何のために描くのだろうか。絵画は彫刻、建築、工芸などと同様に美を視覚的に表す芸術の一つである。美といっても単なる視覚的な美だけでなく、人間を豊かにするもの、例えば静寂、平和、怒り、努力、希望、喜び、楽しさ、哀愁など、人間の心に訴え感動を与えるものすべて含むと思う。従って私は、写実画であろうと抽象画であろうと、人間の心に大きな感動を与えるものが良い絵画だと考えている。

 絵画の値段は号いくらという市場価値の基準があって、画商がそれなりに価格を決めて取引される。しかし、それはあくまでも市場における売買価格であり、本来その絵画の真の価値は、観る人が受ける感動の大きさによって決まるものだと思う。私はNさんの抽象画(Nさんによれば半具象画)に何らの感動も受けなかったが、勿論それは私個人の問題であって、この絵の正当な評価では決してない。

つづく

2008年5月14日水曜日

抽象画の美 1

知人のNさんからグループナウNOWのゆさい油彩画作品展の案内状を頂いたので、六月末 、島田市大津の会場「ギャラリー発見」へ行ってみた。

 このグループは藤枝市のA先生が主宰しているもので、会場には九人の会員の三十点と、A先生の二点の作品が展示してあった。

Nさんは四点出品、その中の三十号の「階段のある風景」が代表作と思われるので、その絵について非礼を顧みず私見を述べることにする。

その絵画は昨年島田市の中心部に建てられた鉄筋コンクリート造り三階建てのビルの一部を描いたもので、同じような位置から描かれた他の会員の作品も七点あった。

Nさんの絵はビルの壁が赤色で、建物の外側に付いている非常階段の手すりが異様にひん曲 っている。Nさんの絵の右側に、同じ構図のIさんの絵が展示されてあったが、壁は白で手 すりは真っ直ぐである。

Iさんの絵は現実をそのまま表現した写実画で、鑑賞眼に乏しい私でもよく分かり安心して観れる。それに較べNさんの絵はいわゆる抽象画で、対象の写実的再現ではなく、彼女の心に浮かんだイメージのままに事物を色彩や形状で表現しているのであろう。

従って現実は白い壁でも、心象が赤色ならば赤く表現し、直線の手すりが曲っているとイメージすれば曲げて描くのだと思う。

Nさんは自分の感覚を基準とし、現実と異なる色や形を使って自分の心象風景を強調することによって、美をより的確に表現しようとしたものと思われる。

つづく

2008年5月13日火曜日

自転車泥棒 3

 ふと、ずっと昔に観たイタリア映画「自転車泥棒」を思い出した。一九八四年製作の米アカデミー外国映画賞を受けた巨匠ヴィットリオ・デ・シーカ監督の作品である。

 明日がやっとありついた父の初仕事の日ということで、小学校四年生くらいの息子は自転車をぴかぴかに磨いて父を送り出そうと張り切っている。仕事はポスター貼りだ。だから自転車は必需品だ。ところが、父がはしごに登って大きなポスターを貼っているうちに自転車を盗まれてしまう。

第二次世界大戦直後のイタリアは仕事にありつくのは至難のわざ業。商売道具の自転車を盗まれては仕事にならない。親子は悲惨な状況に陥る。友人もいっしょに探してくれたが見つからない。

思い余った父親は息子に先に帰るように言って、自分は他人の自転車を盗んだ。が、見つかって取り押さえられ、袋叩きにあう。その様子を帰る電車に乗り損ねた息子が見ていた。子供の目の前で屈辱にまみれ絶望に打ちひしがれた父親。その父親の手を息子がそっと握りしめる。

 このラストシーンの「切なさ」と「やりきれなさ」が観客の心を打つ名作であった。

 盗まれた人間が、やむにやまれず盗みをはたらかねばならないという厳しい社会状況。そのような貧しさは戦中戦後の日本にもあり、そこから抜け出そうとして人々は一生懸命働いた。そして、社会は豊かになり一億飽食の時代にはなったが、ついぞ予期した「衣食足りて礼節を知る」時代にはならなかった。のみならず、国民が等しく豊かになれば盗みはなくなるだろうとの期待はあったが、現実に豊かな時代になっても盗みは依然として横行している。まさに、弁天小僧の浜松屋のせりふ「石川や、浜の真砂は尽きぬとも、世に盗人の種は尽きまじ」、である。

 けれども、昭和の末頃までは、こそ泥を含め盗難はあるにはあったが、現在ほどひんぱんではなかったように思う。貧しくても、親は吾が子に対して他人のものを盗むな、他人に迷惑をかけるな、と厳しくしつけ、それなりの効果があった。今は自転車の盗難などは日常茶飯事となり、罪悪感が希薄になってしまったようだ。

 しかし、このままでいい訳がない。聖書にも、仏教の本にも盗むなと教えてあり、それは道徳の基本である。如何に豊かになっても、それが守れない世の中では人間は真の幸せになれない。これからは経済成長はゆっくりでいいから、人々が道徳の基本を守り安心して楽しく暮らせる世の中にしたいものである。それは人々の意識をかえることで大変むずかしいとは思うが、憲法改正よりも優先して取り組むべき喫緊の要事ではないだろうか。

2008年5月12日月曜日

自転車泥棒 2

 私の事務所では今年の春ごろにも、同じように自転車を盗まれかかったことがあった。事務所の前に置いてあった自転車に、通りすがりの五十過ぎの男が乗って走り出そうとした。事務員が急いで外へ出て、「それはうちのものですよ」と声をかけたら、「すみません」と言って自転車を置いて逃げるように早足で立ち去ったという。

この程度のことは窃盗未遂として届け出ても罪科に問われないらしいので、そのままで終わってしまった。

 最近、私自身にもこんな経験があった。ある雨の日にプラザおおるりで会合があり、西側の入口にある傘立てに濡れた傘を入れた。会合が終わって帰るときに傘がなくなっていた。その傘は数年前に旧駅通りの馴染みのしにせ老舗で二五〇〇円で買い求めた、男ものの大きなこうもり傘であった。

買う際に、店の主人の手で傘の柄に私の住所氏名を彫り付けてもらい、私はそれを愛用していた。腹が立ったが手の施しようもない。幸い雨が止んでいたので濡れずに帰れたが、降っていたら誰か他人の傘をさして帰ろうかという不届きな気持ちが生じたかもしれない。

 それからまた、一週間ほど経った雨の日に、近くのスーパーへ行き入口の傘立てに傘を入れ、買い物をして帰りに見ると無くなっていた。店長に文句を言ったがどうしようもない。

その傘は、プラザおおるりで無くなった傘の予備として、同じ店で一年ほど前に買ったものだった。その店は主人が亡くなって息子さんが店を継いでいるが、彼はワープロで私の住所氏名、電話番号を記入したラベルをつくり傘の柄に貼ってくれた。

その傘が盗られたのである。しかもおおるりでの盗難の一週間後に。傘の盗難が二件続いたあと、一ヵ月も経たないうちに自転車の盗難に遭ったのだった。経済的な損失はなかったものの、私は気が滅入った。

2008年5月11日日曜日

自転車泥棒 1

「先生、自転車を盗まれました。」棟続きの自宅で用事を済ませて事務所へ戻った私に、女子事務員から待っていましたとばかりに報告があった。

 九時半ごろ、事務所の前に置いてある自転車に誰かがさわっているのが入口のドアのガラス越しに見えた。何をするのかと不審に思っているうちに自転車に乗って走り出した。事務所から飛び出して声を掛けたが、聞こえぬふりしてスピードをあげて走り去った。

身長一・七メートルくらいの学生服を着た高校生風だった。すぐに駅前の交番に連絡して盗難届を出した、という。 自転車は十一年前に二万円ほどで買った赤色の軽快車で、フェンダーに私の住所氏名がマジックで書いてある。

償却済み同然の中古車だが、無ければ新しく買わなければならない。警察へ届け出ても盗難車を見つけ出すことは恐らくむずかしいであろう。忌々しいことだと舌打ちした。 

その晩の七時ごろ、三ツ合町の杉本さんという主婦から電話がかかってきた。杉本さん宅の近くにある駐車場の隅に私の自転車が横倒しになっていて、夜になってもそのままなので盗難車かと思い自宅に一時保管した上で、ご親切にも自転車に書いてある住所から私の電話番号を調べて電話してくれたのだった。

私は丁重に礼を述べ、明日受け取りに伺うことにした。そして駅前交番に盗難車が見つかったことを報告した。 

翌日は土曜日で事務所は休みであった。私は車に乗れないので自転車を受け取りに行くのを誰かに頼もうかと思案していたら、交番から電話があった。「今から自転車を引き取りに行ってきます」「自転車を取りに行くのは私の方で行きますから、いいですよ」「いいえ、指紋が採取できれば取りたいと思いますから、こちらで行きます。

そして、自転車はお宅へ届けます」 お巡りさんの親切な言葉に私は恐縮した。杉本さんと警察のご好意によって自転車は無事戻り一件落着したわけだが、私の心は何故か晴れ晴れしなかった。

2008年5月10日土曜日

しぐれ 3

「今朝はあんなに天気がよかったのに。女心と秋の空というのは本当ですね」と私が言うと、隣りに腰かけていた廸可が、

「それは男心と秋の空というのですよ」と言い返してきた。

 これをきっかけに雑談が始まった。いろいろな噂話がひとしきり済んで食べ物の話になる。鰻、天ぷら、トロ、ビフテキ、いろいろ皆の好きなものが出てきたので、私が、

「僕は鮎がいいな」と言うと、廸可が思い出したように言った。「ねえぇ、どでごんす」

「なんです?」

 顔を右に向けると、廸可の白いうなじがすぐ眼の前にあった。彼女は私の視線をそらすように下を向きながら言う。

「あのね、鮎の一番おいしい頂き方、ご存じ?」

「うーむ、僕はやっぱり塩焼きだね。やなで獲れたての鮎を串にさし、甘塩で焼いて食べるのが一番だよ」

「いいえ、そうではありません」

「へえー、じゃあどのようにして食べるの?」

「新鮮な鮎を笹でくるくるとくるんで火にかけるの。そしてこんがり焼けたところで食べるのが一番おいしいのですって」

「ふうん、そうかねえ」

「これを、鮎の笹焼きというの」

 私がそれがどのようなものかと思案しようとした途端、廸可のさも愉快そうな声高の笑い声がおきた。それは「愛のささやき」のことであり、それをまともに考えた私はまんまと乗せられてしまったのである。

 このようなとりとめもない雑談をしているうちに、西の空が明るくなって雨が上がった。釣瓶落しに日が暮れかかってうそ寒い風が少し強く吹き始めたころ、私たちは無事に療養所に帰りついた。

2008年5月9日金曜日

しぐれ 2

昼食を済ませると午後の安静時間をサボって、男女三人ずつ六人でのび野火どめ止の臨済宗妙心寺派の名刹、金鳳山平林寺へ出かけた。清瀬の駅から志木行きのバスに乗って十五分足らずで降り、それから歩いて約十五分の距離であった。

 うっそう鬱蒼たる老杉が参道を覆い、山門両脇の仁王像は、いかにも由緒ありげに思われた。手入れの行き届いた境内をきよらかな野火止用水が流れ、禅宗寺院らしく茅葺の庫裏がひな鄙びた内庭と調和し弥が上にも静寂さを感じさせる。この寺では今でも雲水が修行しているという。

 その帰り道、リヤカーのやっと通れるくらいの細道が畑の中をしばらく続いたあと、雑木林の中へ曲って入ってゆく。しーんと静まりかえった林の中の、落ち葉の敷かれた小径をゆっくり進むと、突然足元から野鳥が飛び立った。

 林を外れかけたところで、俄に曇ってきた。これは困ったなと思っているうちに、ぽつりぽつりやってきた。さてどうしよう、何処か雨宿りする所はないかと思って見廻すと、三百メートルほど先に農家が見える。雨脚が次第に激しくなって来たので、皆は小走りに駆けだした。廸可は私と並んで後ろの方からゆっくり歩いていたが、前の連中につられて駆け出した。そのとたん、彼女は小石につまずいて転びそうになったので、私は咄嗟に彼女の手を取って握りしめ支えてやった。その手はか細く柔らかで冷たかった。

「少しくらい濡れてもいいから、ゆっくり行きましょう」と私は言った。廸可は肺活量が少なく、しかも手術後三か月足らずなので、もともと駆けるのは無理であった。二人は遅れて農家の軒下に入り、私はハンカチで彼女の肩から背中の雨を拭いてあげた。私達六人は南向きの縁先を借りて並んで腰を下ろし、しばらく雨宿りをさせてもらうことにした。

 武蔵野の広い広い野末から野末へと、林をこえ、森をこえ、田畑をわたり、また林をこえて、しのびやかにしぐれが通り過ぎてゆく。畑のずっと向こうの雑木林が、墨絵のようにかすんで見える。晴れている時とは違った風趣があたりに漂い、ひたひたとささやくようなしぐれが地面に吸い取られてゆく。縁先の庭にある柿の木の梢に三つほど取り残された赤い実が雨にうたれて冷たそうに見え、庭の隅にある大きな欅は通り雨を事ともせず濡れるに任せている。

 時雨は一向に止みそうもない。

つづく

しぐれ 1

 昭和三十一年秋、私は東京の郊外、清瀬町の結核療養所に入所した。私の入った五号室は男八人の大部屋だが、全員が高専卒以上で歳も三十歳前後であったせいか話がよく合った。三つ隣りの一号室には二十代前半の美女八人がベッドを並べていた。

 入所して二、三日経ったころ、この女性達と親睦を深めようと食堂で茶話会を催した。自己紹介がひとわたり済み余興に入ったとき私は、少年のころ父から教えてもらった数え歌を唄った。

  ひとつとや 一つは正月のことなれば   門松飾りはどでごんす どでごんす
 それは四本の箸と一つの盃を使って十二か月の代表的な風物を順次紹介する数え歌であるが、結語の囃し言葉「どでごんす」が皆の印象に残ったとみえて、それ以来、私に「どでごんす」というあだ名が付けられた。

 この茶話会以後、彼女たちと気軽に散歩をしたり、雑談したりするようになった。その中の一人に東京から来た手島みちか廸可がいた。彼女は背がすらりとして眼が綺麗で、額が心做し広いせいか髪を前でくるくるとカールしていた。二十三、四歳くらいで、何事もひかえめな落着いた感じの女性であった。
 十一月も終わりに近い或る日曜日の朝、廸可から声がかかった。

「どでごんす、平林寺へ行かない?」

 私は二つ返事で承知した。

つづく

2008年5月7日水曜日

かわいい女2

 私はある時、女友達にこんな質問をした。

「かわいい女というと、あなたはどんな女を連想する?」

 彼女は少し小首をかしげから応えた。

「それは馬鹿な女ね」

「うん、いい線いってる」

「えーと、それから馬鹿なだけでなく、ちょっぴり賢くないと駄目ね」

 こんなところがかわいい女の横顔であろうか。

 男は概して自分の女房に対して優越感を持ちたいと思うものであるが、そのためには自分より能力の低い女と結婚すればよい。しかし、男は一方ではなるべく頭のいい吾が子を欲しいと願うから、そのためには賢い女と結婚するほうが望ましい。かくして男はかわいい女か賢い女かの選択に迷うのである。

 私の知っている若者が最近結婚した。高校時代から付き合っている女性がおり、気立てがよく非常にしっかりしていて、親も承知していたので、当然その女性と結婚するだろうと私は予想していたが、結局は三つ年下の平凡な女性と結婚した。彼はいろいろ迷ったあげく、賢い女よりかわいい女を選んだのであろうか。

 望月さんの次に立った新郎の友人の祝辞が長く続くのを聞きながしながら、私は考えた。このごろの演歌調の歌謡曲は、ヤングものから中年向きのものまで「あなたの望む事なら私は何でもする。あなたが欲しいなら私のすべてをあげる。その代わり私をかわいがってちょうだい」といったような内容の歌詞である。自己を主張せず常に無条件服従のかわいい女がなぜ男にも女にも望まれるのであろうか。男にとっては、女をリードする見識を高める勉強をしなくてもすむからであろうか。

 しかし、人生は安易でない道を努力して向上するところに深い喜びがあり、また、夫に対して遠慮せずに自分の考えを伝えることができる状態になってこそ、女にとっても本当の悦びや生甲斐があるのではないだろうか。

 私は数日前に市民会館で観た演劇、滝沢修主演の「セールスマンの死」を思い出した。あんなに理解深く優しそうに見える妻なのに、どうして彼は自殺する前に打ち明ける事が出来なかったのだろう。男にとって自分のセールス能力の低下を妻に話すのは、死ぬよりつらい事なのであろうか。

あの老セールスマンは死ぬ時、自分の能力をありのままに優しく認め、温かく励ましてくれる妻を望んだのではあるまいか。或いは、彼は生きる事に疲れ厭世感を抱いて死を選んだのだろうか。それにしても、こんな事を考えるのは私も歳をとったせいかもしれない。

「次は、益田さんにお願いします」という司会者の声に、私は我にかえって立ち上がった。高砂や、この浦舟に帆をあげて、月もろともに出で潮の・・・

 私は姪の新婦の好子に対して、「男がいつまでも一緒にいたいと思う女、長く暮らしても飽きのこない本当のかわいい女になるように」という想いをこめて、朗々と謡いあげた。

2008年5月6日火曜日

かわいい女

かわいい女

 「次は望月章江さんに、祝辞をお願いします」 司会者の声に応じて、私の隣の席にいた若い娘さんがゆっくり立ち上がった。

「好子さん、岩城さん、お目出とうございます。私はこういう席に出た事がありませんので、どんな事をお話したらいいか、昨夜から考えているのですがまだ考えがまとまりません。本当に困ってしまいます」 華やかな振袖姿の右手にマイクを持ったまま、しばらく考えこむポーズをとった。

「それではひとつ、昔の事をお話することにします。好子さんと私は小学校と中学が同級ですが、小学校一年生のころ、ある日私が好子さんの家に遊びに行くと、ここにご列席していらっしゃる三つ年上のお兄さんと座敷で遊んでいました。

お兄さんは釣竿を持っていましたが、そのうちに、『好子、お前、魚になれ』と言いました。すると好子さんはお兄さんの言う通りに畳の上で横になって、魚のかっこうをしてお兄さんの釣竿の先に掛かって釣られました。このように好子さんは小さい時から非常に素直で、人の言うことをよく聞く性格を持っております。

これから新郎の岩城さんが求めれば、好子さんは鰹にもひらめにも、或いはこのごろはやりの鯛焼きくんにでもすぐになって釣られるでしょう。そしてかわいいお嫁さんになって、幸せな結婚生活を送られる事と私は信じております」 

考えがまとまらないどころではなく、ユーモアのあふれるスピーチに満場の拍手が起こり、花婿は我が意を得たりとばかりに破顔し、花嫁も顔をほころばせている。

 かわいい女を男が望み、女もそれになろうとする。めでたしめでたしのはずであるが、私の心は何かそのまま受け容れられないものを感じた。

つづく

2008年5月5日月曜日

春風 2

 こんなことがあってから、小川さんとは時どき話し合った。と言っても、私は終日ベッドに寝ているので、話す機会は彼女が当番で私の所へ回ってくる時しかなかった。それでも、看護師の仕事の話、病院の設備や薬の話など話題が際限なく広がって楽しかった。当番になったとき彼女は、夜番でも昼番でも「今晩は(今日は)私が当番になりました」と言って、私に必ず笑顔を見せてくれた。

 或る日、偶然廊下ですれ違ったとき、小川さんが満面に笑みを浮かべて「益田さん、こんにちは」と声をかけてくれた。私は嬉しかった。また夜、廊下ですれ違ったとき「益田さん、ご飯は全部食べられましたか」と親身になって訊いてくれた。

 仏教に『顔施』という言葉がある。これは十の施しの中の一つで、〈笑顔で人に接し、喜びを与える〉ということであるが、私はこの顔施を受けているような気がした。

 シャワー入浴で、小川さんに背中を流して貰った時は、最高の気分であった。そのとき少し時間があったので、いい顔と美しい顔の違いについて改めて話した。

「女優は概ね美しい顔をしていますが、全員がいい顔にはなりません。自分の立場を十分に理解し、心からその役になりきって演ずるとき、名演技となり、観客はいい顔だと感じます。映画『鉄道員』を企画したとき、この役にはこの人しかいない、と請われて主人公を演じた高倉健が、見事にその役を演じて喝采を博しました。私もあの映画を見て、北国の小さな駅の駅長を演ずる高倉健の哀愁に滲む顔を見たとき、ああいい顔だなあ、と思いました」

 小川さんは、私にシャワーをかけながら聞いている。「あの晩、あなたは私の所へ来たとき、この患者は何か難しいことを訊きそうだが、森田さんは居ないし困った、と思ったでしょう」「はい」「ここは自分が頑張って、出来るだけのことをしなければならないと思って、あなたは開き直ったような気持ちで、私の方をしっかり見詰めました。その真剣な面差しを見て、私はいい顔だと感じたわけです」 シャワー入浴の時間があっという間に過ぎてしまった。

 退院が近づいた或る日、私は私の随筆集に署名して小川さんに贈った。「お忙しいでしょうが、せめて最初の『しぐれ』だけでも読んで下さい」「いいえ。益田さんが書かれたものなら、全部読ませて頂きます」「じゃあ、これでさよならですね」 と言って、私は彼女の手をそっと握った。その手は小さく、そして温かかった。

 三月の末に近いころ、私は退院した。それから半年余りの月日が流れたが、小川さんの噂は風の便りにも聞かない。

 私は七十六歳。あれは私の老いた顔を優しく撫でて過ぎた春の風だったのかもしれない。

2008年5月3日土曜日

春風 1

二月の初め、私は肺炎治療のため市民病院に入った。

 夕方になり、入室の時に世話をしてくれた看護師の森田さんが、若い看護師を連れて来て、「今夜はこの小川が当番です」と紹介した。小川さんは小柄で、白い瓜実顔と大きな眼が印象的であった。彼女は市の看護学校を卒業してすぐ市民病院に入り、三年目だという。

 その夜、高熱で苦しんだので、翌日の夕方、私はナースコールをした。すると小川さんが来て、ベッドの所ですっと腰を下げ、私を見上げるようにして「何か御用ですか」と言った。目線を患者より低くするというその動作に、私は新鮮な驚きと喜びを感じた。
「私は耳が遠いから、もっと近くに来てください」というと、そのまますすっと近づいて「どうぞ」という顔をした。

 私は高熱対策を相談したかったので、ベテラン看護師の方がいいと思い、「森田さんを呼んで貰いたいのですが」と言った。すると彼女は「森田さんはもう帰りました。私で分かることなら何でもしますから、どうぞおっしゃってください」と言って、その鈴を張ったような目に力を込めて私を見詰めた。

〈この患者は困っている。私がしっかりしなければ〉という職業意識に燃えた気迫に私はけお気圧される感じがして年甲斐もなく面映い気持ちになり、彼女の表情を見ながら「小川さんはいい顔をしていますね」と思わず口走って仕舞った。彼女はきょとんとした表情をしながら横を向いたので、私は誤解されたかと思い、「いい顔と美しい顔とは少し違います。自分のやるべきことをしっかりやろうという気迫のこもった顔を、いい顔だと私は感じるのです」と慌てて付け加えた。

 それからその夜の高熱対策について話し合った。これには私の医学知識の不足もあったが、小川さんの説明を七分どおり納得し、座薬を使用してその夜は無事に過ぎた。

つづく

2008年5月2日金曜日

すんぷ夢ひろば6

 大門の前で記念撮影をして帰路につく。途中、焼津さかなセンターへ寄って土産ものを買い、予定通り午後四時に神社前に到着した。この小旅行は直接費だけでも演芸場の入場料一、三〇〇円、食事代一五八〇円の計二、八八〇円かかるのに、市社会福祉協議会から補助をうけて個人は六〇〇円の負担で参加できた。

 私は高齢で体力がなくなり、汽車でもバスでも遠出はできないが、今回程度の日帰り旅行ならまだ参加できる。日頃は自宅に閉じ籠り、たま偶にはどこかへ行ってみたいと思っていたところだったので丁度よかった。誘ってくれた民生委員の田中さんに感謝している。しかも、この旅で思いもかけず寄席の演芸を堪能できて、こんなに楽しい思いをしたことは最近なかった。

 半月ほど過ぎて行き付けの理髪店に行った。『すんぷ夢ひろば』へ行ったことを店主に話し、序でに『天下泰平の湯』の評判をアンテナの高い主人に訊いたところ、このごろ行った人が、「あそこは入場料が高い上に、中の個々の施設へ入るのに追加利用料を払わねばならない。加えて子どもの遊び場がないのでこりごりした。二度と行く気がしない」とこぼしていたという。

 どうやら温泉施設の方も天下泰平でなく黄信号が点きそうな気配のようだ。県下最大級の温泉、それに演芸場と駿府町家。これだけの大きな施設を整えてオープンし、営業開始してから半年も経たないうちに前途が危ぶまれるとは、新しい事業をおこすのは難しいものだ、とつくづく思った。

 そして、そうしたリスクを百も承知で、今や全国的となった『日帰り温泉ブーム』など新規事業に取り組む人が競い合う。欲深い人間模様の修羅場をかいま垣間見たような気がする。『すんぷ夢ひろば』の繁盛は、大方の期待をよそに、うたかた泡沫のように消え去るのだろうか。

2008年5月1日木曜日

すんぷ夢ひろば5

 私はきぬぎぬ後朝の別れを惜しむ女の寂しげな顔をリクエストしようとしたのだが、そのような抽象的なものは絵画や文学で表現するものであり、具象的な形を線で表現する紙切り絵には不適切なことであった。寄席には不似合いな、場所わきまを弁えない注文をすれば、芸人は困惑し、場内は途端に白ける。

私は皆に冷笑され、ひんしゅく顰蹙を買うことになるだろう。何かを思い込むと周囲が見えなくなるのは、私の短所の一つだ。その身勝手さと、野暮さに我ながら呆れて、人知れず首をすくめた次第である。私は時間に救われたのだった。ただ、その無粋な考えは私の性格によるだけでなく、紙切り芸の愉しさが私を酔わせたからかもしれない。

 ともあれ、ひとりが二十分、五人の色物芸人による一時間四十分の演芸は、寄席初体験の私を十分に愉しませてくれた。

 近いうちに気の合った人ともう一度来てみようと思い隣席の女性に話したら、昨年十一月七日にオープンした頃は入りきれないほど入場者があったが、最近では客が減ったため、今年の四月からは月に二日しか開演しないので、事前確認が必要だという。

 静岡市周辺では演芸場が連日満席になるほどの寄席ファンはないとみえる。演芸場の周りには駿府町家と称する江戸時代を再現した家並みに収まって食堂、土産物店、喫茶店などが軒を連ねている。これらはすべて新築したものであるが、演芸場の来客が減れば当然経営が苦しくなるだろうとひとごと他人事ながら心配になった。

 演芸場の近くゆめやぐらの夢櫓という食堂で昼食を摂る。建物はもちろん新しいがテーブルや椅子、食器類もすべて新品なのが当然ながら頗る気になった。私たちが楽しんだ演芸場は『すんぷ夢ひろば』の一部で、その西隣りには県下最大級の温泉施設と称する「天下泰平の湯」があるが、そちらの客の入り具合は果たしてどうなのであろうか。

つづく