昨年九月に弟の明が七十一歳で亡くなり、今年六月に兄の謙二が八十六歳で他界したので、今年は初盆の法事が二つあった。この二軒は隣り合っており、先ず明の家で八月十一日午前十一時から、つづいて午前十一半から兄の家で、それぞれうらぼんえ盂蘭盆会が行われた。
弟の家での法事の際、未亡人Y子さんが、亡夫の戒名「みょうこうしゃしんこじ明光写真居士」が気に入らないらしいと知った。法要後のおとき御斎で、彼女にそれとなく訊ねると、「夫は無類の写真好きでしたが、戒名らしい重々しさが感じられない」とのことであった。私も同感である。何となれば、戒名は死者のあ彼の世における名前だからだ。来世の極楽は全くくげん苦患のない安楽の世界と言われるが、其処は喜びあふれる賑やかな楽しい所ではなく、曖昧模糊とした心静かな楽しい所らしい。従って、「写真」のような具体的なもんごん文言を戒名の中に使うのは不適当と思われる。これまでに私は「写真」という字句の入った戒名を見たことも聞いたこともない。しかも、戒名を決める際、住職から事前に何らの断りもなかったとのことだ。住職が手を抜いたのではないかという感じがしてならなかった。
兄の子ども達はY子さんの不満を知っていたので、父親の戒名は自分たちが納得するものにしようと相談して、「けんしきじゅれいこじ謙識樹嶺居士」という戒名をひねり出し、住職の承諾を得たという。謙は名前の一字、識は博識で益田一族のルーツなどいろいろなことを調べて周りの人に知識を与えてくれたという意、樹は庭に多くの木を植え盆栽を楽しんだ、嶺は山登りを好んだ、というように父親の好きだったことをまとめたものである。子ども達に拍手を送りたいところだが、盛り沢山過ぎるような感じがしないでもない。
私はY子さんに「これから先ずっと、あなたは仏壇の位牌を拝むたびに嫌なおもいをするのは遣り切れないでしょう。私が介添えしますから、住職に戒名の変更をお願いしたらどうですか」と助言してみた。けれども彼女は、墓石に刻まれてしまった戒名を変えると不吉なことが起こるという因習があるのと、住職に楯突くようなことはしたくないとのことだったので、戒名はそのままにしておくことにした。
私はかねてから親鸞の思想・信条・行動を優れたものとして、心酔している。その親鸞は「それがし閉眼せば、加茂川に入れて魚に与うべし」(かいじゃしょう改邪鈔)という言葉を残し、自身が入寂しても墓はつくらなくてよいと言っているが、私は、残される身内の世間体等を慮って、平成十三年十月、伊太旗指にある浄土真宗・東本願寺派の光雲山きょうしんじ敬信寺に墓地を求めた。その後、葬式の方法については親鸞の教えに添い、なるべく簡素に行いたいと考え、平成十六年七月、葬式のマニュアルをまとめ敬信寺十四世住職・伊藤稔氏の了解を得た。
今、私は八十三歳、妻は八十二歳である。五年ほど前に発病した妻の認知症は次第に進行し、近頃は体も衰えて歩行がままならなくなった。そして、私も持病のC型肝炎のゆえかひるひなか昼日中でも床に就き体を休めている時間が多くなった。私たち夫婦はいつどちらが先に逝くかわからない状態になったので、遺される親族のものが負担になることは可能な限り少なくしようと思い、葬式の方法について再検討し、改めて『私の葬式』なるマニュアルを作成した。その際、仏教について少しく勉強し、戒名に関する知識を得た。
人は鬼籍に入る際に菩提寺の住職によって戒名をつけられるが、本来、戒名は死後に付けられるのではなく、生きているうちに付けるもののようである。また、多くの宗派は戒名というが浄土真宗では法名という。浄土真宗の場合は「浄土においてはすべての仏が平等である」という意味合いから、法名は釋の下に必ず二字ということになっている。そして、生前法名は菩提寺の住職を通して真宗大谷派本山の東本願寺(お東)法主による剃髪式が行われたうえで与えられる。私はこの生前法名をぜひ得たいと思った。
そこで八月二十四日に敬信寺へ行き、伊藤住職に『私の葬式』を進呈して葬式の打合せをした折、生前法名授与についてお願いすると、住職は「もちろん結構です」と言われた。敬信寺におけるこれまでの法名授与について訊ねると、住職はその帳簿を見せてくれた。そこには十人余りの人名が列記してあった。夫婦揃って授与されている人もあり、夫のみ、妻のみの人もいた。半数近くは私が知っており、いずれも人生や生死について深く考えていそうな方たちであった。その中には、私が島田商業の教師時代の教え子T子さんの名前もあった。
しばらく経ってからТ子さんに会い、生前法名を受けた経緯を訊いてみると、「生家は日蓮宗でしたが浄土真宗の家に嫁ぎ、敬信寺へ毎月行って住職の法話をお聴きしているうちに、ここに安心の源があるような気持になり、二十年近く前に〝芳心〟という法名を頂きました。」と話してくれた。素直な心の人だと思った。私の実家の檀那寺である曹洞宗・長源寺では戒名を生前授与される人はほとんどいないようだが、敬信寺では予想外に多くの人たちが生前法名を受けている。そして、浄土真宗では法名を生前授与する全国的なシステムができているようだが、このことは曹洞宗よりも浄土真宗のほうが仏教がより生きている証左と言えないだろうか。
昭和六十一年(一九八六)に九十六歳で永眠された島田市の名誉市民第一号、本通五丁目の清水真一さん(通称チシンさん)は、二十七歳のとき「しゃくぶんせい釋聞正」という生前法名を受けており、没後、この敬信寺の墓地に葬られた。チシンさんの法名「釋聞正」は人の話を正しく聞くという意であろうか。国文学者・歌人・民俗学者の折口しのぶ信夫(一八八七―一九五三)は生前「しゃくちょうくう釋迢空」という法名を戴き、それを作品発表の際に筆名として用いた。
私は自分の法名について考えてみた。それは八十年間の私の生きざまを二文字で如実に示すものでなければならない。
先ず、「じきょう自彊」を頭に思い浮かべた。私の母校・自彊小学校の校名である。「自彊」という言葉は明治四十一(一九〇八)年に国民教化のために出された『ぼしんしょうしょ戊申詔書』から引用したもので、その出典は中国の『えききょう易経』の中にある。「しょうじつてんこうけん象日天行健、くんしはもってじきょうやまず君子以自彊不息」。天の歩みは誠に力強い。君子はこの天にのっとって、休みなく自彊(自己を強制する。私欲に克つ)の努力を続けてゆくべきである、との意のようである。私はこれまで、「目標を定め、努力してそれを達成する」という信条で生きてきた。ゆえに「自彊」は私の生きざまを的確に表現しているが、文字だけ見ると意味が分かりにく難い―と思われるので取り下げた。
次に考えたのは「水」に関連する二文字である。水は人間にとって極めて大切なものだ。人は食べ物がなくても一か月近く生きられるが、水がなければ数日で死ぬ。また「水は、方円の器に随う」という。人は交友・環境しだいで善悪のいずれにもなる、とのたとえだ。更に、水を飲むとき、その水源を思う、幸せをくれた恩人を忘れないたとえで「飲水思源」という言葉もある。常に低いほうへ流れるという水の原理は不変である。そして水は天から下り、霧・雲・雨・雪・あられ霰・露・霜と変化して再び水蒸気となって天へ戻る。そうした自然の運行によって人間の生活にうるおいを与えてくれる。私は水の如くありたいと願い、「如水」はどうかと思った。しかし「如水」といえば、豊臣秀吉の知恵袋と言われた竹中半兵衛と並ぶ知将の黒田如水があまりにも有名なので、私の存在は消えてしまう。これもボツにした。
月一回の定例文章会から帰路、車の中でNさんに法名についての苦労話をしたら、彼女から、
「益田さんは文章を書くのがお好きだから、〝文〟を入れたらどうでしょう」との助言があった。
「うむ。これは行けそうだ」と、私は咄嗟に感じた。Nさんの思い付きが私の琴線に触れたのである。そして〝文〟についてあれこれ考えた末、「ゆうもん游文」の二文字に到達した。
平成十一年三月、春のお彼岸の日、大井川民俗の会の一行に加わり、マイクロバスで水戸を訪れたことがある。たまたまその年、NHKの大河ドラマ『徳川慶喜』が放映され、水戸藩主・徳川なりあき斉昭が登場するので、水戸には『徳川慶喜展示館』が設けられていた。私たちは展示館や偕楽園の梅林、好文亭などを見学してから弘道館に立ち寄った。弘道館は斉昭が創設した藩校である。正面玄関横の梁に、てんしょたい篆書体で「げいにあそぶ游於藝」と書かれたへんがく扁額が掲げてあって、斉昭の雅号の落款があった。斉昭は書が得意であったというが、けれんみのない品位ある筆跡である。傍らに、「六藝〝礼、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬術)、書、数〟を学ぶ時、学問武芸にこり固まらずにゆうゆう楽しみながら勉強するの意」との説明文があった。「游」は「遊」と同義である。「藝に励む」といえば平凡になる。「藝に游ぶ」というこの表現は、なんと素晴らしい語句だろう。「真面目一本槍では駄目で、ゆとりを持って楽しみながら学ぶ」というこの弘道館の教育方針は、点取り主義でゆとりが無く、受験勉強に明け暮れる日本の教育の現状を、痛烈に批判しているように思った。私は、この文言を考案した斉昭に畏敬の念を覚えた。(ただし、これは斉昭の創作ではなく、論語のじゅつじ述而篇第七にある文句であることを後日知った。)
私は、心の奥深くに入っているこの「游於藝」の字句を思い出した。芸といえば、これまでに私は数社の経営に参画し、三つの自由業に取り組み、趣味として文章・長唄・囲碁・ゴルフ等をたしな嗜んだので、こじつければ斉昭のいう六芸に励んだことになるかもしれない。そこで法名を「游芸」にしようと思ったが、遊芸というと一般的には琴・三味線・踊り・小唄などの遊びごとに関した芸能を連想するからやめて、私の六芸の中で最後まで残った「文章」のみにしぼりこみ、「游文」という法名を思い付いた次第である。
顧みれば、私は故・内藤亀文先生のご指導を受けて文章を習い始めてから四十年経ち、随筆文集『しぐれシリーズ』を六号まで上梓し、近く七号を出版しようとしている。そして、文章というものはどのようにして書くべきかということが最近になって少し分かってきたような気もする。高齢のため、他の芸はすべてできなくなったが、文章だけは今も続け、それが唯一の生き甲斐となって、私は今も充実した人生を送っている。文章こそ私の人生の支柱であり、それを表す「游文」は私にとってまこと実にふさわしい法名であると思う。
伊藤住職に法名授与の具体的方法について尋ねると、希望者に対しては東本願寺の静岡別院で五日間(一日四時間)の前期教育があり、少し間を置いて京都の本山で三日間の後期教育が行われて、その後に法名が授与されるのだという。けれども、悲しいかな、今の私の体力では到底この二つの教育に耐えられないから、生前授与は極めて困難である。従って住職にお願いして、法名を登録しておき、死後授与になると思う。
碁ワールド九月号に高尾しんじ紳路名人・本因坊に関する記事が載っていた。今年の本因坊戦七番勝負で高尾が挑戦者依田のりもと紀基九段を下し、本因坊戦三連覇の偉業を為し遂げた。そこで師匠の藤沢ひでゆき秀行名誉棋聖が高尾に本因坊秀紳という号を贈ったという。ここまではよくある話だが、その下に「本因坊秀紳直筆きごう揮毫色紙を三名様にプレゼント」というお知らせがあり、高尾本因坊が「游志」と書いた色紙を持った写真が載っていた。これを見て私は目を丸くした。私がこれまであれこれ考えた挙句に決めた法名「游文」と同じような語句を高尾本因坊が誇らしげに示していたからである。碁への志とは何か。それは碁の奥義を極めるということであろう。
私は碁を勝とうとして局部的にこん根を詰めて考えることが往々にしてあるが、これはよくない。その部分を客観的に見ること、つまりは、取られそうになった石をむしろ捨て石にして外から締め付けたらどうなるかという逆転の発想、また、全局的に見てもっと重要なところはないかと考えることが大切である。すなわち、碁が上達するには常に一部分に囚われず、冷静にゆとりのある気持ちを持って大局的に考えることが重要なポイントになる。それを遊びというのだと思う。藤沢秀行氏は和漢に通じ、書を能くすると聞いているから、この「游志」という語句は藤沢氏が考えたものではないかと思われる。そして、それが偶然にも私の苦心惨憺して考えた語句と酷似したのであろう。
広辞苑を繰ると、「遊び」の解釈の八番目に「機械の部分と部分が密着せず、その間にある程度動きうる余裕のあること。ハンドルの遊び、というような用い方をする」とある。自動車のハンドルに遊びが無いとスムーズに運転できない。人間社会が円滑に運営されるには、心のゆとりを生む「遊び」が必要であるのに、合理化とは遊びを少なくすることだと思いこんで人員や経費を削り続けた。その結果、働きざかりでうつ病や認知症になる人や自殺者が増えてきた。経済の成長は止めても、安心して生活できる世の中にしたいものだ。
このように考えると「游文」という法名に私は一段と魅力を感ずる。惚れ込んだと言ってもよい。これからは「釋游文」をペンネームとして大いに使おうと思う。そしてあ彼の世に行っても随筆を書き続けて、「しぐれ八号・九号」を上梓したいと思っているが、当然、その時は「釋游文」が本名となる。
(平成十九年九月)
2011年11月25日金曜日
私の死生観
私は大正十三年十二月二十五日に生まれたが、戸籍上は翌十四年の一月一日生まれである。親が七日遅らせて村役場に出生届を出したからだ。従って、今年の正月元旦で満八十三歳を迎えた。
誕生日が元旦なので、かって「明けましておめでとう」と言われることはあっても、「誕生日おめでとう」と言われたためしがなかった。ところが、今年は元旦の夜、家族との会食が済んだのち娘夫婦から「誕生日おめでとう」と祝福されて、血圧計をプレゼントされた。市役所にあるのと同じ二の腕で測るオムロン社製の立派な血圧計である。手先の方で測る器具は不正確であり、かと言って市役所へたびたび行って測るのはおっくう億劫だ。このごろ私は血圧が上がり、これからの健康維持には油断なく血圧に注意する必要があり、血圧計が家にあればいいと思っていたところだったので、まことじぎ時宣にかなった贈り物に私は娘夫婦に心底から礼を言った。
こ来し方をふり返ってみると、よくぞここまで生きてきたとしみじみ思う。
幼少年の頃はすこぶる健康であった。身体が小さいのでかくとうぎ格闘技は不得手だったが、持久力を要する競技には強かった。島商時代、全校約五百人のマラソン競走で三十番になった。運動会ではさかだ逆立ち競争の固定(長い間立っている)と移動(長い距離を歩く)で一等賞をもらった。横浜高等商業(現横浜国立大経済学部)に入り、三年生の時テニス部のキャプテンになった。対外試合に勝つために猛練習をしたため、試合には勝ったが、戦時中の食糧不足と過労により肺結核に罹った。二年近くの闘病生活の末にようやく快復したが、それ以来、こと健康に関しては自信を喪失した。六十ぐらいまで生きれば上々とさえ思っていた。
昭和三十一年に肺結核が再発、左肺の上半分を切除した。その手術時に、アメリカから輸入された売血の中にC型肝炎のウィルスが入っていたため感染。そのウィルスが二十年の潜伏期間を経て、昭和五十年頃から活動し始め、それからは常にC型肝炎に悩まされることになった。私と同じころ同じ病院で肺結核の手術をした人の大半はC型肝炎から肝臓ガンとなり死亡した。私は医者から特効薬といわれたインターフェロンの使用を奨められたが副作用があるので使わず、健康器具のコウケントーと調和道丹田式呼吸法で危機を切り抜けてきた。しかし、加齢により体力が衰えてきたためか、七十六才の時、肺炎にかかり、更に八十歳になって肺炎が再発した。
現在、日本の男の平均寿命は七十六歳である。小学校から大学までの私の同級生の生存率はおおよそ四〇%である。夏目漱石の『硝子戸の中』に、「多病な私が何故生き残っているのだろうか疑ってみる。あの人はどういう訳で私より先に死んだのだろうかと思う」という死生に関するくだり件があるが、私の余生もいよいよ残り少なくなってきたので、死について自分の考えをまとめてみようと思う。
「人間は正視することの出来ないものが二つある。太陽と死だ」というしんげん箴言があるが、人間は誰しもが長
生きしたいと願っている。しかし、人間に限らず、生命のあるものは必ず死ぬ時が来る。生命は永遠のものではない。そして、死ぬまでにその種を絶やさぬよう子孫をこの世に残す。このことは誰もが承知しているわけだが、自分だけはもっと長生きできないかと考える。しん秦の始皇帝はじょふく徐福に不老長寿の薬を探すことを命じたが、現代人でも長寿の薬となると血眼になって求める。
人間の寿命は昔と較べると随分長くなった。平安時代の平均寿命は三十歳ぐらい位という。昔は乳幼児の死亡が多く、成人しても食糧不足、戦乱、流行病、風水害などで早死にした。江戸時代でも四十歳位といわれる。それが今では経済的に豊かになり、医学が進み、八十歳を超すようになった。ライオンの寿命は自然界では十年だが動物園では三十年、象は自然界では二十年だが動物園では五十年生きるという。つまり、人間は動物園で過保護に飼育されているようなものである。釈迦はきのこ茸の食あたりで八十歳で亡くなったといわれるが、現代人は八十歳になってもなおもっと生きたいと願う。かく言う私もその一人である。
人間が長生きを願う理由は幾つかある。
①現在の生活が楽しいから、この状態をもっと続けたい。
戦後の高度経済成長により、旅行、グルメ、スポーツ、趣味など楽しいことが前よりもずっと多くなった。死んだらこの楽しさは味わえないからと、長生きの欲望が今までより増幅した。
②死に対する精神的不安をなくしたい。
この点についてキリスト教は「アダムとイヴが禁断の木の実を食べたことにより人間は罪を犯すようになったが、キリストがすべての人間の罪を背負って十字架で処刑されたため、人間の罪は消え、死後、すべての人の魂は天国へ行ける」と説く。クリスチャンはそれを信じているから死に対する精神的不安は何もないという。江戸時代の島原の乱で原城にたてこもったキリスト教徒が強かったのは、死を怖れなかったためだといわれる。ちなみにキリストは、ユダに密告されて捕えられ、ゴルゴダの丘の上で十字架に架けられ死んだのは三十二歳だったという。
また、キリスト教と同根のイスラム教にも同じ思想があるから、今でも平然と自爆攻撃を行っている。序でながら、四十歳でアッラーの神の最初の啓示に接したといわれるマホメット(ムハンマッド)は、以後片手にコーラン、片手に剣を振りかざしてイスラム教を流布し、アラビア半島を初めて統一し、メッカへの最後の巡礼を終えてからサウジアラビアのメディナの回教寺院で病床につき、六十一歳で息絶えたという。イスラム教徒の過激さの一因が窺われる話だ。しかし日本人にはそのような思想はない。多くの日本人は江戸時代初期にできた檀家制度により仏教に馴染み、かんぜん勧善ちょうあく懲悪の思想を漠然と持っている。誰でも多少は後ろめたい行為をするであろうから、あの世で極楽へ行けないかもしれない、と心配する人も年配の人にはいるかもしれない。
③死に直面した時の精神的苦痛をなくしたい。
死刑が宣告された時、重大な事故が発生し一定時間経過後に死ぬことが判った時、不治の病となり一定日時後に死ぬことを告げられた時、これらの場合のように生きたいという自分の意志に反して死ななければならなくなった時、人間は精神的苦しみを感ずる。これに対して、四十七人の赤穂浪士のように切腹覚悟の場合は、討入りしてから切腹するまでの間に精神的苦痛よりも目的を達成した満足感の方が大きかったであろう。武田信玄がきえ帰依しけい恵りんじ林寺の住持となったかい快せん川じょう紹き喜は、織田信長が勝頼を攻めた時、一山の僧と共に寺の山門内に立てこもり焼死した。その時、快川和尚の作ったげ偈「あんぜん安禅必ずしも山水を用いず、しんとう心頭めっきゃく滅却すればひ火おの自ずから涼し」は有名である。猛火に包まれた快川は肉体的には大きな苦痛を受けても、自分の意志を貫く満足感により心の中には涼風が吹いていたに相違ない。この二つの場合は自ら覚悟しての死であるから精神的苦痛は少なかったと思う。けれども、北大西洋でタイタニック号が氷山と衝突して沈没する時、女性や子供を救うため自らボートを離れて波間に沈んだ男がいたというが、大部分の人はボートを奪い合って生き延びようとした。飽くなき生存欲、これがわれわれ人間の本性なのだ。
ともあれ、四十七士や快川紹喜、タイタニック号などは稀にみる事件で、日常生活の中で私たちの周りに起こるのは、不治の病になり死期を宣告される場合などである。最近、私の妹と弟が相次いでガンで亡くなった。死期を告げられた妹の枕許で私が、「ガンになったおん恩こうじ高寺の住職の奥さんが、みほとけ御仏に生命を預けて無心に生きたところガンが治った」という話をすると、妹は「それは難しいことだけれど、私もなるべく心掛けてみます」としおらしく言い、私は心の中で泣いた。主治医から「手遅れで手術はできません」と宣告されて、診察室から出てきた弟は待合室で泣き出し、私は何と言ってなぐさめたらいいか言葉に詰まった。
牧師はホスピスで、「キリストのしょくざい贖罪により、キリスト教徒の魂が天国へ行ける」ことを説き、信者の心を和らげるという。仏教でも浄土宗、浄土真宗は「南無阿弥陀佛と念ずれば誰でも極楽往生できる」と説く。戦国時代に一向一揆が強かったのは、それを信じた仏教徒が命を惜しまず戦ったからだといわれる。昔はそれほど仏教が民衆の生活の中に溶け込み生きていたのに、当今は僧侶がホスピスで極楽往生を説いて患者の心を安らかにさせる話なぞ殆ど聞かない。それは仏教界がしゅじょう衆生さいど済度に挺身するのをやめて、葬式という儀式を行う組織に堕落したからであろうか。それとも文明が進み、経済的に豊かになったため、もはや仏教は日本人の現実生活に適さなくなったのであろうか。
なお別の問題だが、自分の死については諦めても、残した家族の生活が心配だという場合もある。このような精神的苦痛はどう処理したらいいのだろうか。
④ 肉体的苦痛を避けたい。
交通事故、地震、火災、風水害など不時の災害によって受ける肉体的苦痛は防ぎようがない。ふた昔ほど前までは、ガンで死ぬときは大変苦しいものとされていた。しかし、病気による肉体的苦痛は医学の進歩により相当改善された。アメリカでは痛み止めの麻薬の使用が積極的に研究され、日本の約十倍の量が使用されているという。アメリカがそうなれば近いうちに日本の医療もその水準に近づくであろう。肉体的苦痛緩和の問題は五感で確認できるものであるから、今後も更に進歩してゆくに相違ない。従ってこの問題の解決はそれほどむつかしいことではないと思う。
事故死や病死でなく、老衰で死ぬときは肉体的苦痛がないのではないかと私は想像している。私の体験からすると、体が疲れているときは歩くよりも止まっていることを望み、止まって立っているよりも横になること、更にものを言わず静かに眠りに入ることを望むようになる。そしして眠るように逝く。自然死とはそれだと思う。私の娘のしゅうとめ姑は三年前に九十五歳で亡くなられたが、それはうらやましくなるほど見事な最期であった。新築した自宅に初めて入って仏壇の前に進み、「お陰様で、新しい家ができました」と先祖や夫の霊に感謝の祈りを捧げているうちに急に意識がなくなった。救急車で市民病院へ運ばれたが、意識を回復することなく五日後に天寿を全うされた。入院するまで健康で過ごし、家族に看病の手数を煩わすことなく、また死の不安とか苦痛など一切感ずることなく安らかにこの世を去る。私もこのような死に方をしたいと願っている。
自然死の場合は肉体的には勿論のこと、精神的にも苦痛がないのではなかろうか。健康な人が疲れて休むときは、この世の苦労も何もかも忘れて自然に眠りに入る。と同様に、忘我の状態で眠るようにあの世へ旅立つのではないだろうか。健康であれば死ぬとき苦痛はなく、病気になっても医学の進歩で苦痛が緩和されるとすれば、死の肉体的苦痛を避けることはそれほどむつかしい問題ではないと思う。
人間が長生きしたい理由を思いつくまま四つに分けて述べてみたが、私は更にこのように考える。
人間の欲望はきりがない。もっと楽しいことはないかと追い求め、世界中の珍しい所へ行きたがる。金はいくらかかってもいいから、宇宙旅行をしたいというアメリカ人がいると聞いた。しかし楽しさには自ら限度があり、人間は変化を求める。龍宮城へ行った浦島太郎は毎日のように珍味を食べ、鯛やひらめの舞い踊りを楽しみ、絶世の美人の乙姫様にかしずかれても、結局は飽いて故郷へ帰りたくなった。神が人間に与えた最も大きな変化が死である。すべての生物が子孫を残して個体は死ぬというシステムを定めたのは神の英知であり素晴らしいことだと思う。マラソン競走も四二・一九五キロという終点があるからこそ人は走る。ゴールがなければ走ろうとしないに違いない。人生のゴールである死を、もつと積極的な意味で率直に受け入れた方がいいのではないだろうか。とは言っても、正直なところ大概の人は、歳を重ねていつか死ぬことは分っていても、『今』死にたくないのだ。
誰も死を経験した人はなく未知の問題であるがために、死の恐怖に対して漠然とした不安はあっても、つかみ所がないので突き詰めて考えようとしない。それに現代人は忙しく、特に若い人は元気だから死について考えることは殆どないだろう。年配の人も死については病気勝ちの人が考えることで、健康でいるうちは無関心でいられる。
また、死に直面した時、精神的苦痛をなくすのは困難であるが、できるだけの防止策は講じるべきだろう。ただし、それが不可能な場合がある。島田事件(久子ちゃん殺し)の赤堀さんのように、えんざい冤罪で死刑の宣告をうけることがあり、私のように輸血の中にC型肝炎のウィルスが入っていて感染する場合もある。タイタニック号の大方の乗客は沈没を避けようがなかった。しかし、酒や煙草をのみ過ぎてガンになることなどは自制心によって避けられる。つまり、防止策のとれない死に直面するのは運という他ない。その時には、自分に定められた運命と思って生を諦め、魂の救済に安心を求める以外に方法はない。この場合、それは心の持ち方の問題であるから宗教が大きな役割を果たすと思う。その点、キリスト教徒や仏教徒には救いがある。けれども、多くの日本人は無宗教で、中には「人は死ぬと全てが終わりで、肉体だけでなく魂も残らない」という人もあり、人びとの死生観は多種多様、千差万別であるから、死の精神的苦痛の解決策は各人で考えるしかない。
私は無宗教なので、天国や極楽のことには考えが及ばない。死生観については、随筆集しぐれ五号と六号の中に次のように記述した。
約百五十億年前、ビッグバン(宇宙の大爆発)によって地球が生まれ、その後、地球に生物が発生し、百五十万年前に人間の祖先が生じた。人間はもともと宇宙即ち虚空から来た旅人であり、死ぬということは魂が生まれ故郷の虚空へ帰ることである。人間は死ぬと肉体は無くなるが、魂は生きている。この世の中に、その人のことを思ってくれる人が一人でも生きているうちは、その人の霊魂はこの世に留まっている。そして、思ってくれる人が居なくなると、懐かしい生まれ故郷の宇宙へ帰る。
一月二十一日付朝日新聞の天声人語欄に「アフリカ先住民のある部族には、死者を二通りに分ける風習があるという。人が死んでも、その生前を知る人が生きているうちは、死んだことにはならない。生者が心の中に呼び起こすことができるからだ。記憶する人も死に絶えてしまったとき、死者は真に死者になるのだという」とあった。世の中には、私と同じ考えをする人たちがいるのだ、と心強く思った。
人は自分の魂がなるべく長くこの世に留まっていたいと願うから、現世の人に自分を思い出してもらうよすが縁(手がかり)となるように墓をつくる。金持は銅像を作ったり記念碑を建てたりもする。また、絵の好きな人は絵を残して、縁とする。私は随筆集を残す。今年は年末に「しぐれ7号」を上梓する予定である。
私には三歳上の兄がいる。彼は庭いじりが好きで自宅の庭木や盆栽の手入れに余念がなかった。そうした健康的な生活のためか今まで元気に過ごしてきたが、昨年の初秋、血圧が少し高いと言い、そして暮れに脳梗塞で入院した。私も昨年十一月の終わりごろ、体に不調を感じ、市役所の血圧計で測ったところ最高血圧が二〇〇を超えていた。体調を整えて十日後に測ると一四〇に下がったので安心し、改めて健康第一の生活にしようと固く決意した。しかし、後が悪かった。根が酒好きな性分なので、忘年会を三つこなし、C型肝炎を気にしながらも酒を飲み、またもや二〇〇を超えた。人間の決意が行動と結びつくとは必ずしも決まっていない、とつくづく思った。
これから私の心掛けるべきことは、平凡なことだが、とにかく持病と上手に付き合うことだ。健康に気をつけて自然死すれば娘婿の母親のような安らかな死に方ができると思う。また、精神的な苦しみがあったとしても最小限で済む。毎日自分のしたいことを気ままにやって、死ぬことなど忘れていることが一番だと思いながら、一日一日を過ごせればこれ以上の果報はない。
私の居間には、「てんじゅ天寿のいき之域」と書いたおきろつぽうしょ沖六鵬書のへんがく扁額が掲げてある。天寿の域とは、「自分の寿命はすっかり天帝に預け、心から悠々自適の生活を楽しむ心境に達すること」の意ではないかと思う。
(平成十九年一月)
誕生日が元旦なので、かって「明けましておめでとう」と言われることはあっても、「誕生日おめでとう」と言われたためしがなかった。ところが、今年は元旦の夜、家族との会食が済んだのち娘夫婦から「誕生日おめでとう」と祝福されて、血圧計をプレゼントされた。市役所にあるのと同じ二の腕で測るオムロン社製の立派な血圧計である。手先の方で測る器具は不正確であり、かと言って市役所へたびたび行って測るのはおっくう億劫だ。このごろ私は血圧が上がり、これからの健康維持には油断なく血圧に注意する必要があり、血圧計が家にあればいいと思っていたところだったので、まことじぎ時宣にかなった贈り物に私は娘夫婦に心底から礼を言った。
こ来し方をふり返ってみると、よくぞここまで生きてきたとしみじみ思う。
幼少年の頃はすこぶる健康であった。身体が小さいのでかくとうぎ格闘技は不得手だったが、持久力を要する競技には強かった。島商時代、全校約五百人のマラソン競走で三十番になった。運動会ではさかだ逆立ち競争の固定(長い間立っている)と移動(長い距離を歩く)で一等賞をもらった。横浜高等商業(現横浜国立大経済学部)に入り、三年生の時テニス部のキャプテンになった。対外試合に勝つために猛練習をしたため、試合には勝ったが、戦時中の食糧不足と過労により肺結核に罹った。二年近くの闘病生活の末にようやく快復したが、それ以来、こと健康に関しては自信を喪失した。六十ぐらいまで生きれば上々とさえ思っていた。
昭和三十一年に肺結核が再発、左肺の上半分を切除した。その手術時に、アメリカから輸入された売血の中にC型肝炎のウィルスが入っていたため感染。そのウィルスが二十年の潜伏期間を経て、昭和五十年頃から活動し始め、それからは常にC型肝炎に悩まされることになった。私と同じころ同じ病院で肺結核の手術をした人の大半はC型肝炎から肝臓ガンとなり死亡した。私は医者から特効薬といわれたインターフェロンの使用を奨められたが副作用があるので使わず、健康器具のコウケントーと調和道丹田式呼吸法で危機を切り抜けてきた。しかし、加齢により体力が衰えてきたためか、七十六才の時、肺炎にかかり、更に八十歳になって肺炎が再発した。
現在、日本の男の平均寿命は七十六歳である。小学校から大学までの私の同級生の生存率はおおよそ四〇%である。夏目漱石の『硝子戸の中』に、「多病な私が何故生き残っているのだろうか疑ってみる。あの人はどういう訳で私より先に死んだのだろうかと思う」という死生に関するくだり件があるが、私の余生もいよいよ残り少なくなってきたので、死について自分の考えをまとめてみようと思う。
「人間は正視することの出来ないものが二つある。太陽と死だ」というしんげん箴言があるが、人間は誰しもが長
生きしたいと願っている。しかし、人間に限らず、生命のあるものは必ず死ぬ時が来る。生命は永遠のものではない。そして、死ぬまでにその種を絶やさぬよう子孫をこの世に残す。このことは誰もが承知しているわけだが、自分だけはもっと長生きできないかと考える。しん秦の始皇帝はじょふく徐福に不老長寿の薬を探すことを命じたが、現代人でも長寿の薬となると血眼になって求める。
人間の寿命は昔と較べると随分長くなった。平安時代の平均寿命は三十歳ぐらい位という。昔は乳幼児の死亡が多く、成人しても食糧不足、戦乱、流行病、風水害などで早死にした。江戸時代でも四十歳位といわれる。それが今では経済的に豊かになり、医学が進み、八十歳を超すようになった。ライオンの寿命は自然界では十年だが動物園では三十年、象は自然界では二十年だが動物園では五十年生きるという。つまり、人間は動物園で過保護に飼育されているようなものである。釈迦はきのこ茸の食あたりで八十歳で亡くなったといわれるが、現代人は八十歳になってもなおもっと生きたいと願う。かく言う私もその一人である。
人間が長生きを願う理由は幾つかある。
①現在の生活が楽しいから、この状態をもっと続けたい。
戦後の高度経済成長により、旅行、グルメ、スポーツ、趣味など楽しいことが前よりもずっと多くなった。死んだらこの楽しさは味わえないからと、長生きの欲望が今までより増幅した。
②死に対する精神的不安をなくしたい。
この点についてキリスト教は「アダムとイヴが禁断の木の実を食べたことにより人間は罪を犯すようになったが、キリストがすべての人間の罪を背負って十字架で処刑されたため、人間の罪は消え、死後、すべての人の魂は天国へ行ける」と説く。クリスチャンはそれを信じているから死に対する精神的不安は何もないという。江戸時代の島原の乱で原城にたてこもったキリスト教徒が強かったのは、死を怖れなかったためだといわれる。ちなみにキリストは、ユダに密告されて捕えられ、ゴルゴダの丘の上で十字架に架けられ死んだのは三十二歳だったという。
また、キリスト教と同根のイスラム教にも同じ思想があるから、今でも平然と自爆攻撃を行っている。序でながら、四十歳でアッラーの神の最初の啓示に接したといわれるマホメット(ムハンマッド)は、以後片手にコーラン、片手に剣を振りかざしてイスラム教を流布し、アラビア半島を初めて統一し、メッカへの最後の巡礼を終えてからサウジアラビアのメディナの回教寺院で病床につき、六十一歳で息絶えたという。イスラム教徒の過激さの一因が窺われる話だ。しかし日本人にはそのような思想はない。多くの日本人は江戸時代初期にできた檀家制度により仏教に馴染み、かんぜん勧善ちょうあく懲悪の思想を漠然と持っている。誰でも多少は後ろめたい行為をするであろうから、あの世で極楽へ行けないかもしれない、と心配する人も年配の人にはいるかもしれない。
③死に直面した時の精神的苦痛をなくしたい。
死刑が宣告された時、重大な事故が発生し一定時間経過後に死ぬことが判った時、不治の病となり一定日時後に死ぬことを告げられた時、これらの場合のように生きたいという自分の意志に反して死ななければならなくなった時、人間は精神的苦しみを感ずる。これに対して、四十七人の赤穂浪士のように切腹覚悟の場合は、討入りしてから切腹するまでの間に精神的苦痛よりも目的を達成した満足感の方が大きかったであろう。武田信玄がきえ帰依しけい恵りんじ林寺の住持となったかい快せん川じょう紹き喜は、織田信長が勝頼を攻めた時、一山の僧と共に寺の山門内に立てこもり焼死した。その時、快川和尚の作ったげ偈「あんぜん安禅必ずしも山水を用いず、しんとう心頭めっきゃく滅却すればひ火おの自ずから涼し」は有名である。猛火に包まれた快川は肉体的には大きな苦痛を受けても、自分の意志を貫く満足感により心の中には涼風が吹いていたに相違ない。この二つの場合は自ら覚悟しての死であるから精神的苦痛は少なかったと思う。けれども、北大西洋でタイタニック号が氷山と衝突して沈没する時、女性や子供を救うため自らボートを離れて波間に沈んだ男がいたというが、大部分の人はボートを奪い合って生き延びようとした。飽くなき生存欲、これがわれわれ人間の本性なのだ。
ともあれ、四十七士や快川紹喜、タイタニック号などは稀にみる事件で、日常生活の中で私たちの周りに起こるのは、不治の病になり死期を宣告される場合などである。最近、私の妹と弟が相次いでガンで亡くなった。死期を告げられた妹の枕許で私が、「ガンになったおん恩こうじ高寺の住職の奥さんが、みほとけ御仏に生命を預けて無心に生きたところガンが治った」という話をすると、妹は「それは難しいことだけれど、私もなるべく心掛けてみます」としおらしく言い、私は心の中で泣いた。主治医から「手遅れで手術はできません」と宣告されて、診察室から出てきた弟は待合室で泣き出し、私は何と言ってなぐさめたらいいか言葉に詰まった。
牧師はホスピスで、「キリストのしょくざい贖罪により、キリスト教徒の魂が天国へ行ける」ことを説き、信者の心を和らげるという。仏教でも浄土宗、浄土真宗は「南無阿弥陀佛と念ずれば誰でも極楽往生できる」と説く。戦国時代に一向一揆が強かったのは、それを信じた仏教徒が命を惜しまず戦ったからだといわれる。昔はそれほど仏教が民衆の生活の中に溶け込み生きていたのに、当今は僧侶がホスピスで極楽往生を説いて患者の心を安らかにさせる話なぞ殆ど聞かない。それは仏教界がしゅじょう衆生さいど済度に挺身するのをやめて、葬式という儀式を行う組織に堕落したからであろうか。それとも文明が進み、経済的に豊かになったため、もはや仏教は日本人の現実生活に適さなくなったのであろうか。
なお別の問題だが、自分の死については諦めても、残した家族の生活が心配だという場合もある。このような精神的苦痛はどう処理したらいいのだろうか。
④ 肉体的苦痛を避けたい。
交通事故、地震、火災、風水害など不時の災害によって受ける肉体的苦痛は防ぎようがない。ふた昔ほど前までは、ガンで死ぬときは大変苦しいものとされていた。しかし、病気による肉体的苦痛は医学の進歩により相当改善された。アメリカでは痛み止めの麻薬の使用が積極的に研究され、日本の約十倍の量が使用されているという。アメリカがそうなれば近いうちに日本の医療もその水準に近づくであろう。肉体的苦痛緩和の問題は五感で確認できるものであるから、今後も更に進歩してゆくに相違ない。従ってこの問題の解決はそれほどむつかしいことではないと思う。
事故死や病死でなく、老衰で死ぬときは肉体的苦痛がないのではないかと私は想像している。私の体験からすると、体が疲れているときは歩くよりも止まっていることを望み、止まって立っているよりも横になること、更にものを言わず静かに眠りに入ることを望むようになる。そしして眠るように逝く。自然死とはそれだと思う。私の娘のしゅうとめ姑は三年前に九十五歳で亡くなられたが、それはうらやましくなるほど見事な最期であった。新築した自宅に初めて入って仏壇の前に進み、「お陰様で、新しい家ができました」と先祖や夫の霊に感謝の祈りを捧げているうちに急に意識がなくなった。救急車で市民病院へ運ばれたが、意識を回復することなく五日後に天寿を全うされた。入院するまで健康で過ごし、家族に看病の手数を煩わすことなく、また死の不安とか苦痛など一切感ずることなく安らかにこの世を去る。私もこのような死に方をしたいと願っている。
自然死の場合は肉体的には勿論のこと、精神的にも苦痛がないのではなかろうか。健康な人が疲れて休むときは、この世の苦労も何もかも忘れて自然に眠りに入る。と同様に、忘我の状態で眠るようにあの世へ旅立つのではないだろうか。健康であれば死ぬとき苦痛はなく、病気になっても医学の進歩で苦痛が緩和されるとすれば、死の肉体的苦痛を避けることはそれほどむつかしい問題ではないと思う。
人間が長生きしたい理由を思いつくまま四つに分けて述べてみたが、私は更にこのように考える。
人間の欲望はきりがない。もっと楽しいことはないかと追い求め、世界中の珍しい所へ行きたがる。金はいくらかかってもいいから、宇宙旅行をしたいというアメリカ人がいると聞いた。しかし楽しさには自ら限度があり、人間は変化を求める。龍宮城へ行った浦島太郎は毎日のように珍味を食べ、鯛やひらめの舞い踊りを楽しみ、絶世の美人の乙姫様にかしずかれても、結局は飽いて故郷へ帰りたくなった。神が人間に与えた最も大きな変化が死である。すべての生物が子孫を残して個体は死ぬというシステムを定めたのは神の英知であり素晴らしいことだと思う。マラソン競走も四二・一九五キロという終点があるからこそ人は走る。ゴールがなければ走ろうとしないに違いない。人生のゴールである死を、もつと積極的な意味で率直に受け入れた方がいいのではないだろうか。とは言っても、正直なところ大概の人は、歳を重ねていつか死ぬことは分っていても、『今』死にたくないのだ。
誰も死を経験した人はなく未知の問題であるがために、死の恐怖に対して漠然とした不安はあっても、つかみ所がないので突き詰めて考えようとしない。それに現代人は忙しく、特に若い人は元気だから死について考えることは殆どないだろう。年配の人も死については病気勝ちの人が考えることで、健康でいるうちは無関心でいられる。
また、死に直面した時、精神的苦痛をなくすのは困難であるが、できるだけの防止策は講じるべきだろう。ただし、それが不可能な場合がある。島田事件(久子ちゃん殺し)の赤堀さんのように、えんざい冤罪で死刑の宣告をうけることがあり、私のように輸血の中にC型肝炎のウィルスが入っていて感染する場合もある。タイタニック号の大方の乗客は沈没を避けようがなかった。しかし、酒や煙草をのみ過ぎてガンになることなどは自制心によって避けられる。つまり、防止策のとれない死に直面するのは運という他ない。その時には、自分に定められた運命と思って生を諦め、魂の救済に安心を求める以外に方法はない。この場合、それは心の持ち方の問題であるから宗教が大きな役割を果たすと思う。その点、キリスト教徒や仏教徒には救いがある。けれども、多くの日本人は無宗教で、中には「人は死ぬと全てが終わりで、肉体だけでなく魂も残らない」という人もあり、人びとの死生観は多種多様、千差万別であるから、死の精神的苦痛の解決策は各人で考えるしかない。
私は無宗教なので、天国や極楽のことには考えが及ばない。死生観については、随筆集しぐれ五号と六号の中に次のように記述した。
約百五十億年前、ビッグバン(宇宙の大爆発)によって地球が生まれ、その後、地球に生物が発生し、百五十万年前に人間の祖先が生じた。人間はもともと宇宙即ち虚空から来た旅人であり、死ぬということは魂が生まれ故郷の虚空へ帰ることである。人間は死ぬと肉体は無くなるが、魂は生きている。この世の中に、その人のことを思ってくれる人が一人でも生きているうちは、その人の霊魂はこの世に留まっている。そして、思ってくれる人が居なくなると、懐かしい生まれ故郷の宇宙へ帰る。
一月二十一日付朝日新聞の天声人語欄に「アフリカ先住民のある部族には、死者を二通りに分ける風習があるという。人が死んでも、その生前を知る人が生きているうちは、死んだことにはならない。生者が心の中に呼び起こすことができるからだ。記憶する人も死に絶えてしまったとき、死者は真に死者になるのだという」とあった。世の中には、私と同じ考えをする人たちがいるのだ、と心強く思った。
人は自分の魂がなるべく長くこの世に留まっていたいと願うから、現世の人に自分を思い出してもらうよすが縁(手がかり)となるように墓をつくる。金持は銅像を作ったり記念碑を建てたりもする。また、絵の好きな人は絵を残して、縁とする。私は随筆集を残す。今年は年末に「しぐれ7号」を上梓する予定である。
私には三歳上の兄がいる。彼は庭いじりが好きで自宅の庭木や盆栽の手入れに余念がなかった。そうした健康的な生活のためか今まで元気に過ごしてきたが、昨年の初秋、血圧が少し高いと言い、そして暮れに脳梗塞で入院した。私も昨年十一月の終わりごろ、体に不調を感じ、市役所の血圧計で測ったところ最高血圧が二〇〇を超えていた。体調を整えて十日後に測ると一四〇に下がったので安心し、改めて健康第一の生活にしようと固く決意した。しかし、後が悪かった。根が酒好きな性分なので、忘年会を三つこなし、C型肝炎を気にしながらも酒を飲み、またもや二〇〇を超えた。人間の決意が行動と結びつくとは必ずしも決まっていない、とつくづく思った。
これから私の心掛けるべきことは、平凡なことだが、とにかく持病と上手に付き合うことだ。健康に気をつけて自然死すれば娘婿の母親のような安らかな死に方ができると思う。また、精神的な苦しみがあったとしても最小限で済む。毎日自分のしたいことを気ままにやって、死ぬことなど忘れていることが一番だと思いながら、一日一日を過ごせればこれ以上の果報はない。
私の居間には、「てんじゅ天寿のいき之域」と書いたおきろつぽうしょ沖六鵬書のへんがく扁額が掲げてある。天寿の域とは、「自分の寿命はすっかり天帝に預け、心から悠々自適の生活を楽しむ心境に達すること」の意ではないかと思う。
(平成十九年一月)
2008年7月6日日曜日
万葉の歌碑 2
妻が認知症で浜松の施設に入ったため、月に一、二回面会に行き、昼食時に妻を連れ出して、食後、近くをドライブすることにしている。
去る五月、館山寺温泉のレストランで食事をすませてから、ふと、「みおつくしの碑」をもう一度見よう
と思い立ち、現地へ行ってうろ覚えで探してみたが見当たらなかった。その後も二回ほど探したが分からなかったので、細江町の教育委員会で訊いたところ、気賀駅の北の小高い丘の上にある細江公園の中に幾つかの文学碑を移し集めたことが分かった。
さっそく訪ねてみると、そこには与謝野晶子、佐藤春夫、佐々木信綱、山田無文の碑と並んで、かって私の見た「みおつくしの碑」があった。懐かしい知己にようやく会えたような気がして嬉しかった。丘の上の公園には落着いた雰囲気があったけれども、この碑はやはり、みおつくしの木製の模型が近くの水中に立っている浜名湖畔にある方が相応しいと思った。
みおつくしの碑を探したさい、乎那の峰も探したが、遺憾ながら地図には表記されていない。みおつくしの碑の探索でこ懲りているので、今度は初めから三ケ日町の教育委員会へ文書で問合わせたところ、乎那の峰は三ケ日町尾奈で、奥浜名湖駅の西南約三〇〇メートルのところにある高さ一〇〇メートルほどの小高い丘であることが判った。
丘の西側道路沿いの駐車場に車を停め、娘と長男、それに知人のK子さんとの四人でゆっくり丘を登った。細道の脇には万葉集に出てくる植物が植えてあり、その傍らに植物名と、まつわる万葉の歌を書いた木札が立ててある。
大伴家持のかたかご(カタクリの古名)の歌があり、金谷の牧ノ原公園の中にかたかごの群落があるのを思い出す。歌をひとつひとつ読んでいったらきりがないので先を急ごうとしたが、道に凹凸があり、苔が生えていて滑り易く、倒れた木が道をふさいでいたりして危険である。それに私は息が弾んできたので、娘と息子に頂上まで行って文学碑の写真を撮ってくるよう頼み、私とK子さんはそこで休んで待つことにした。
去る五月、館山寺温泉のレストランで食事をすませてから、ふと、「みおつくしの碑」をもう一度見よう
と思い立ち、現地へ行ってうろ覚えで探してみたが見当たらなかった。その後も二回ほど探したが分からなかったので、細江町の教育委員会で訊いたところ、気賀駅の北の小高い丘の上にある細江公園の中に幾つかの文学碑を移し集めたことが分かった。
さっそく訪ねてみると、そこには与謝野晶子、佐藤春夫、佐々木信綱、山田無文の碑と並んで、かって私の見た「みおつくしの碑」があった。懐かしい知己にようやく会えたような気がして嬉しかった。丘の上の公園には落着いた雰囲気があったけれども、この碑はやはり、みおつくしの木製の模型が近くの水中に立っている浜名湖畔にある方が相応しいと思った。
みおつくしの碑を探したさい、乎那の峰も探したが、遺憾ながら地図には表記されていない。みおつくしの碑の探索でこ懲りているので、今度は初めから三ケ日町の教育委員会へ文書で問合わせたところ、乎那の峰は三ケ日町尾奈で、奥浜名湖駅の西南約三〇〇メートルのところにある高さ一〇〇メートルほどの小高い丘であることが判った。
丘の西側道路沿いの駐車場に車を停め、娘と長男、それに知人のK子さんとの四人でゆっくり丘を登った。細道の脇には万葉集に出てくる植物が植えてあり、その傍らに植物名と、まつわる万葉の歌を書いた木札が立ててある。
大伴家持のかたかご(カタクリの古名)の歌があり、金谷の牧ノ原公園の中にかたかごの群落があるのを思い出す。歌をひとつひとつ読んでいったらきりがないので先を急ごうとしたが、道に凹凸があり、苔が生えていて滑り易く、倒れた木が道をふさいでいたりして危険である。それに私は息が弾んできたので、娘と息子に頂上まで行って文学碑の写真を撮ってくるよう頼み、私とK子さんはそこで休んで待つことにした。
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