2011年11月25日金曜日

私の葬式

 私の七人兄弟のうち、長兄は昭和二十年六月二十日夜、沖縄で二十五歳で戦死した。残りの六人は戦後ずっと生き長らえたが、最近になって平成十五年九月、次女・きみ喜美が口腔ガンのため七十三歳で、平成十八年九月、四男・明が肝臓ガンのため七十一歳で、平成十九年六月、次男・謙二が胃ガンのため八十六歳で相次いで身罷った。

生存しているのはさんなん三男の私(八十三歳)、長女八重(八十一歳)、三女久子(六十三歳)の三人で、この
うち八重は小学六年のとき健康優良児として表彰され、農家に嫁ぎ今も頑健で農事にいそしんでいるから、おそらく最も長生きするに違いない。久子は子宮ガンを患ったが治ってから五年経ち、まだ若いから当分心配はないと思われる。そして、私はC型肝炎が持病で長期的に見ると肝機能を示す数値が少しずつ悪くなってきているため、次にきせき鬼籍に入る可能性が最も高いようだ。来世などいささかも信じなかった兼好法師は『死は目の前にあるのではなく、背後から迫ってくるものだ』という(『徒然草』一五五段)。私の背後には既に死がひたひたと迫っているのかもしれない。

 そこで私は、自分の死生観とか葬式観などをとろ吐露し、私が死んだらこのように葬って欲しいことを予め書き出して、近親者の主だった人たちに理解しておいてもらおうと思い立ち、四年前に書いた「私の葬儀マニュアル」を再検討し、改めて「私の葬式」について纏めてみた。


 〔一〕人は死ぬと肉体は無くなるが、魂は生き長らえ、生まれ故郷の虚空へ戻る。ただし、その故人のことを思ってくれる人が生きている限り、魂はこの世に留まっている。

「約百五十億年前、ビッグバン(宇宙の大爆発)によって地球が生まれ、その後地球に生物が発生し、約百五十万年前に人間の祖先が生じた。人間はもともと宇宙即ち虚空から来た旅人であり、死ぬということは生まれ故郷の虚空へ帰ることである。」との説がある。私はこの説にほぼ同感である。そして、「私が忘れたらあの人は二度死ぬことになる。人が死んでもその生前を知る人が生きているうちは死んだことにはならない。生者が心のうちに呼び起こすことが出来るからだ。記憶する人も死に絶えてしまったとき死者は真の死者になるのだ。」というアフリカ先住民のある部族の死生観と同様に、「死後、その人を思ってくれる人が、この世に一人でも生きているうちは、その人の魂はこの世に留まっている」と考えている。 

 〔二〕人は現世の人が自分を思い出してくれるよすが縁にするために墓をつくる。

 我が国の葬法にはかって土葬、火葬、風葬などいろいろあった。時代により地域により、その形式・内容はさまざまな変化を示したと思われるが、今は火葬が一般的だ。私は日本人の葬法というものを考える場合、遺骨崇拝の伝統を念頭におくことが大切であると思う。そして、この葬法との密接な関係のもとにつくられたのが、お墓である。墓があれば、そこに遺族が詣でることにより、本人を偲ぶきっかけになり易いと思う。

 かつて、権力や財力のある者は大きな墓をつくった。エジプトのピラミッド、中国の西安郊外にあるしん秦のし始こうてい皇帝陵、日本の仁徳陵をはじめとする巨大な前方後円墳、などはその代表的なものである。

 しかるに、このところ大都市を中心に墓地の取得が困難になってきた。人口の集中、墓地敷の高騰といった状況が進行してきたからである。一方、過疎化した地方では、寺に付属する墓の無縁仏化が目立つようになった。墓と遺骨の関係者が都会にでかけたまま戻ってこなくなったのである。それだけではない。夫の家の墓に入りたがらない妻たちが増えはじめた。女たちだけのしえん志縁はか墓をつくる運動まで火がついた。つまり、死んだ人間の骨をまつ祀る観念がゆらぎはじめ、それを管理する方法が多様化のきざしをみせるようになったのである。ちょうどそのような時期に元駐日大使ライシャワー氏が亡くなって、その遺灰がアメリカ西海岸にまかれ、話題を呼んだ。いわゆる散骨葬送が俄かに脚光を浴びるようになったのだ。故ライシャワー氏の前にも、インドのマハトマ・ガンディやネール元首相の場合も、骨灰はガンディス川にまかれ、上空から大地に散布された。中国の周恩来元首相も死後その骨灰が中国大陸に散布されている。もっともヒンドウー教徒はもともと骨灰をガンディス川に流すと魂は必ず昇天すると信じて墓は一切つくらない。インドはむぼ無墓文化国なのである。それ故に可能となった散骨であろう。これに対し日本には昭和二十三年五月三十一日に公布・施行された「墓地法」があって、その第四条により遺体や遺骨を勝手に処理できない。従って散骨は公然とは出来ないのが現状である。

 また、このごろ「私のお墓の前で泣かないでください」とクラシック歌手が歌う『千の風になって』が大流行しており、何でもミリオンセラーに達する勢いで売れ続けているという。いまや葬儀でも頻繁に流される歌となった。このため、「私は墓にいない、死んでなんかいない」という表現は、日本人が共有してきた仏教的な死生観とは異なると、仏教界を大いに慌てさせている。これは仏教界が葬式などの法事のみに明け暮れていた当然の帰結といえよう。

 東京大のしまぞのすすむ島園進教授(宗教学)は『千の風』の世界観を「死者と生者の関係が非常に近く、個人的だ」とみる。これまでは身内が他界すれば,通夜などに親族や近所の人が集い、飲食を共にしながら、死者の思い出を語らい、悲しみをいや癒してきた。さらに先祖を供養し墓を大事にすることで、「家」というシステムにおいて死者との一体感を維持していた。だが、そうした共同体の機能はどんどん失われているという。そして、「死者との交わりが個的になり、痛みや苦しみも個々人が抱え込んでしまっている」と分析する。そうした時代を生きる人たちには、「風になって空を吹きわたっている」死者との交流がストレートに響くのであろう。(朝日新聞より引用)

 いずれにせよ、日本人の死生観、葬式観や、墓に関する価値観が大きく揺らぎはじめているのは確かなようだ。
 〔三〕吉田町の実家は代々、曹洞宗の信徒であるが、私は浄土真宗の開祖しんらん親鸞に次の三点から魅力を感ずるようになった。

 まず第一に、他力本願であること。親鸞の教えは「一心に南無阿弥陀仏を唱えれば救われる」という浄土宗を開いた法然よりも更に徹底している。人が阿弥陀に帰依の心をおこした時に、極楽往生は約束されると説いた。私はこと信仰に関してはまことに不熱心で、二六二文字しかない「はんにゃ般若しんぎょう心経」すら未だにそら諳んじられない。ましてや、自力で悟りの境地に達する自信がないから、他力すなわち阿弥陀如来の本願の力によって成仏するしかないと思っている。

 第二に、自ら肉食妻帯を認め、世俗の欲望を肯定したこと。親鸞は女人をけが穢れの存在とみてかんいん姦淫を禁止した仏教の戒律と自らの性欲の間で悩んだ末に、公然と妻帯に踏み切った。妻となった女性が、親鸞を献身的に支えたけいしんに恵信尼である。

 鎌倉時代は北条政子をはじめ女性の地位が向上した時代で、女性を差別していた仏教界も法然が女人往生を説いて以来、日蓮(日蓮宗の開祖)、道元(曹洞宗の開祖)、そして慈円(天台座主、「ぐかんしょう愚管抄」の著者)さえもこれに倣った。親鸞はさらに妻帯という形で女性の人格をみとめたのである。
 尤もこれには元久一(一二〇四)年十一月、法然の念仏教団に弾圧があり、親鸞もこれに連座し、藤井義信の俗名を与えられて越後の国府(新潟県直江津)に流された。これより非僧非俗の形をとり、ぐとく愚禿と自称し、しゃみ沙弥生活を理想として配流生活を送っていた時、その配所でみよしためのり三善為教の娘といわれる恵信尼と結ばれ、子女をもうけて家庭生活を営んだといういきさつ経緯がある。が、ともあれ、その親鸞の生きざまに魅力を感じる。

 序でながら、江戸時代以降、僧侶の女犯は厳しく取り締まられ、浄土真宗以外、妻帯は今も認められていない筈だが、他の宗派ではうわべ上辺はきんき禁忌としているものの、実情は多くの僧侶が妻帯し、どの宗派も、今や寺の住職は世襲が当たり前になっている。

 第三に、死者を差別しない。
 仏教では死者に戒名か法名を与える。その戒名にはいかい位階があって、例えば、曹洞宗の場合、昔は寺に対する功労のたか多寡により位階を与えられたが、昨今は葬式の際のお布施の額によるようになった。
 男 院殿大居士 院殿居士 大居士 居士 上座 清信士 信士
 女 院殿大大姉 院殿大姉 大大姉 大姉 法尼(尼上座) 清信女 信女
ちなみに、元総理の故小渕恵三氏の戒名は大名並みの院殿大居士である。

 浄土真宗では戒名と云わず法名という。浄土においてはすべての仏が平等であるという見地から、法名は釈という字の下に二字ということになっており、位階に差を付けない。国文学者・歌人・民俗学者の折口しのぶ信夫(一八八七~一九五三)は生前法名の「しゃくちょうくう釈迢空」を筆名にしていた。また、昭和六十一(一九八六)年に九十六歳で長逝された島田市の名誉市民、本通り五丁目の清水真一さん(通称チシンさん)は、二十七歳のとき「しゃくぶんせい釈聞正」という生前法名を受けており、没後、いた伊太はっさし旗指にある浄土真宗・東本願寺派の光雲山敬信寺境内の墓地に葬られている。人間は生死を問わず平等であるというこの民主的な考え方を浄土真宗が持っていることに私は魅力を感ずる。このような理由で私はチシンさんと同じく敬信寺に墓地を求めた。蛇足だが、作家の山田風太郎(一九五二~二〇〇一)は七十九歳で死去したが、戒名「風々院風々風々居士」は自ら付けた。

 〔四〕日本の仏教はしゅじょう衆生さいど済度の基本方針を変更したのか、檀家の葬式や法事という儀式を執り行う組織と化した。

 イスラム教ではアッラーの神を信じて戦えば死後天国へ行けるという。その教えを信じ、今もアメリカ軍に対して自爆攻撃をする者が後を絶たない。結婚して米国籍となったクリスチャンのY子さんは私にこう語った。「キリストが原罪を背負って十字架で処刑されたため、私たちはみな天国へ行けます。天国は毎日が楽しくいいところです。日本では死ぬことは悲しく望ましくないと考えられていますが、キリスト教徒にとって死ぬとは天国へ行けるという喜ばしいことなのです。」このように、一神教のイスラム教やキリスト教の世界では、宗教が現に事実として生きているのである。

 日本でも戦国時代までは仏教が庶民の間に生きていた。仏教を守るために佛敵と戦って死んだものは極楽往生できるという教えを信じて戦った加賀の一向一揆や、戦国大名などの領国支配に反抗した各地の一向宗徒の集団の制圧に、さすがの織田信長も手を焼いた。また、徳川家光の時代、幕府はキリスト教徒を弾圧するために檀家制度をつくった。それは「日本人は仏教の何れか一つの宗派に檀家として登録せよ。しない者はキリシタンとして処罰する」というものである。この定めにより各寺院には檀家が登録されて固定し、檀家から布施が自動的に入るようになった。それ故、各寺院は仏教の研鑽、修行、布教の努力を怠り、葬式や法事を行うための組織に堕落し、しゅじょう衆生さいど済度とは縁が遠くなったのである。

 〔五〕葬式はなるべく簡素であるべきだ。

 戦国時代頃まで野辺の送りは簡素であった。浄土真宗においては、阿弥陀如来のほんがんりき本願力にすがって極楽へ行けるのであるから、生きている人間が死者をより良い世界(極楽)へ送ることは出来ない。それどころか、宗祖親鸞聖人自身が「それがし閉眼せば、加茂川へ入れて、魚に与うべし」(かいじゃ改邪しょう鈔)という言葉を残しているように、死者儀礼(葬式)そのものさえ不必要なのである。

 しかしながら日本人は古来、先祖を手厚く葬る習慣があり、江戸時代に檀家制度が出来てからは、葬式・法事といった死者儀礼を僧侶が専ら執行するようになった。これは前述のとおり寺の収入維持とも関連する。そして戦後、経済的に豊かになるにつれて、葬式が一段と丁寧に行われるようになった。そして、今や葬祭業者の巧みな術中にはまって丁寧を通り越し盛大の一途をたどっている。私も年相応にこれまで数多くの通夜や葬儀を経験してきたが、こうした風潮を苦々しく思っている。

 元島田市長加藤太郎氏のご母堂ツナさんが五年前に九十七歳で不帰の客となられた。ツナさんは生前、日本女子大同窓会の島田支部長を長く務められ、その間、私の妻が支部の事務を担当していたので、お悔やみに伺おうとしたところ、通夜・葬式は親戚縁者だけで行うということでいんぎん慇懃に断られた。通夜の時、近親者だけで故人のことをしんみりと話すことができて大変良かった、という話を後日知った。「昔と較べてこのごろは葬式が派手になってきた。もっと簡素にした方がいいと思うのに、事が事だけになかなか改めにくい。加藤さんのような有力者が、このように簡素な葬式をやられたことは喜ばしい」という話を友達から聞いた妻は、こういう葬式のやり方がいいと思う、と私に話した。

 沖縄で戦死した長兄には、無事に帰ったら結婚しようと約束したひと女性がいた。その兄が遺骨で帰り益田家の墓地に葬られると、その女性は牧之原市から吉田町の長源寺まで、凡そ六十年という気の遠くなるような長い間、長兄の月命日の二十日には欠かさず墓参にこられた。私はその話を聞き、その人の供えた花を見たとき、そのひたむきな愛の強さに感動した。そして、戦場で花と散った長兄はこの点では幸せな人だったといえると思った。六十二回目の命日を迎えた長兄の墓は、今年もその女性の供えた花で美しく飾られていたという。私は葬式を盛大にしてもらうよりも、このような人がひとりでもいた方がどんなにか嬉しいだろう、と亡き長兄を羨んでいる。
 
 戦後、民法が変わり、家督相続はなくなって、結婚すれば新しい戸籍になることになったが、長い間の慣習を改めることはむつかしい。特に長男で親と同居し、祖先の位牌と墓を受け継いだ者が、お寺とのつき合いを唐突に改めることは極めて困難である。それに較べ私の場合は三男であるから、どこの寺に墓地を求めるか、葬式をどのようにするかは自分の判断で勝手に決めることができる。だからといって、評論家の故・中野好夫のように平生から「自分は死後の世界など全く信じない」という本人のかねてよりの意志により、ひつぎ柩には花束も置かず、遺影一枚が飾られただけであった。また戦後、吉田茂の片腕となってはちめん八面ろっぴ六臂の大活躍をした故・白洲次郎のように「葬式無用、戒名無用」を遺言し、遺族に実行させた――というような、残された家族や近親者を困惑させる極端な事はできない。

 そこで、私は敬信寺の住職と話し合い、私の葬式を次のように簡素に行うことにした。

 葬式のマニュアル(基本)
一、通夜・だび荼毘・葬式は近親者のみにて行う。
 一般の人及び隣組の人には通夜・葬式共に遠慮して頂き、香典、花輪、生                                           花、供物等は一切辞退する。
二、通夜 自宅
  斎場 敬信寺
  僧侶 敬信寺住職伊藤稔氏外一人(住職了承済み)
三、通夜・葬式への出席が予想される人 約三十人
(平成十九年七月)                    

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