2011年11月25日金曜日

法名「釋游文」

 昨年九月に弟の明が七十一歳で亡くなり、今年六月に兄の謙二が八十六歳で他界したので、今年は初盆の法事が二つあった。この二軒は隣り合っており、先ず明の家で八月十一日午前十一時から、つづいて午前十一半から兄の家で、それぞれうらぼんえ盂蘭盆会が行われた。

 弟の家での法事の際、未亡人Y子さんが、亡夫の戒名「みょうこうしゃしんこじ明光写真居士」が気に入らないらしいと知った。法要後のおとき御斎で、彼女にそれとなく訊ねると、「夫は無類の写真好きでしたが、戒名らしい重々しさが感じられない」とのことであった。私も同感である。何となれば、戒名は死者のあ彼の世における名前だからだ。来世の極楽は全くくげん苦患のない安楽の世界と言われるが、其処は喜びあふれる賑やかな楽しい所ではなく、曖昧模糊とした心静かな楽しい所らしい。従って、「写真」のような具体的なもんごん文言を戒名の中に使うのは不適当と思われる。これまでに私は「写真」という字句の入った戒名を見たことも聞いたこともない。しかも、戒名を決める際、住職から事前に何らの断りもなかったとのことだ。住職が手を抜いたのではないかという感じがしてならなかった。

 兄の子ども達はY子さんの不満を知っていたので、父親の戒名は自分たちが納得するものにしようと相談して、「けんしきじゅれいこじ謙識樹嶺居士」という戒名をひねり出し、住職の承諾を得たという。謙は名前の一字、識は博識で益田一族のルーツなどいろいろなことを調べて周りの人に知識を与えてくれたという意、樹は庭に多くの木を植え盆栽を楽しんだ、嶺は山登りを好んだ、というように父親の好きだったことをまとめたものである。子ども達に拍手を送りたいところだが、盛り沢山過ぎるような感じがしないでもない。

 私はY子さんに「これから先ずっと、あなたは仏壇の位牌を拝むたびに嫌なおもいをするのは遣り切れないでしょう。私が介添えしますから、住職に戒名の変更をお願いしたらどうですか」と助言してみた。けれども彼女は、墓石に刻まれてしまった戒名を変えると不吉なことが起こるという因習があるのと、住職に楯突くようなことはしたくないとのことだったので、戒名はそのままにしておくことにした。


 私はかねてから親鸞の思想・信条・行動を優れたものとして、心酔している。その親鸞は「それがし閉眼せば、加茂川に入れて魚に与うべし」(かいじゃしょう改邪鈔)という言葉を残し、自身が入寂しても墓はつくらなくてよいと言っているが、私は、残される身内の世間体等を慮って、平成十三年十月、伊太旗指にある浄土真宗・東本願寺派の光雲山きょうしんじ敬信寺に墓地を求めた。その後、葬式の方法については親鸞の教えに添い、なるべく簡素に行いたいと考え、平成十六年七月、葬式のマニュアルをまとめ敬信寺十四世住職・伊藤稔氏の了解を得た。

 今、私は八十三歳、妻は八十二歳である。五年ほど前に発病した妻の認知症は次第に進行し、近頃は体も衰えて歩行がままならなくなった。そして、私も持病のC型肝炎のゆえかひるひなか昼日中でも床に就き体を休めている時間が多くなった。私たち夫婦はいつどちらが先に逝くかわからない状態になったので、遺される親族のものが負担になることは可能な限り少なくしようと思い、葬式の方法について再検討し、改めて『私の葬式』なるマニュアルを作成した。その際、仏教について少しく勉強し、戒名に関する知識を得た。

 人は鬼籍に入る際に菩提寺の住職によって戒名をつけられるが、本来、戒名は死後に付けられるのではなく、生きているうちに付けるもののようである。また、多くの宗派は戒名というが浄土真宗では法名という。浄土真宗の場合は「浄土においてはすべての仏が平等である」という意味合いから、法名は釋の下に必ず二字ということになっている。そして、生前法名は菩提寺の住職を通して真宗大谷派本山の東本願寺(お東)法主による剃髪式が行われたうえで与えられる。私はこの生前法名をぜひ得たいと思った。

 そこで八月二十四日に敬信寺へ行き、伊藤住職に『私の葬式』を進呈して葬式の打合せをした折、生前法名授与についてお願いすると、住職は「もちろん結構です」と言われた。敬信寺におけるこれまでの法名授与について訊ねると、住職はその帳簿を見せてくれた。そこには十人余りの人名が列記してあった。夫婦揃って授与されている人もあり、夫のみ、妻のみの人もいた。半数近くは私が知っており、いずれも人生や生死について深く考えていそうな方たちであった。その中には、私が島田商業の教師時代の教え子T子さんの名前もあった。

 しばらく経ってからТ子さんに会い、生前法名を受けた経緯を訊いてみると、「生家は日蓮宗でしたが浄土真宗の家に嫁ぎ、敬信寺へ毎月行って住職の法話をお聴きしているうちに、ここに安心の源があるような気持になり、二十年近く前に〝芳心〟という法名を頂きました。」と話してくれた。素直な心の人だと思った。私の実家の檀那寺である曹洞宗・長源寺では戒名を生前授与される人はほとんどいないようだが、敬信寺では予想外に多くの人たちが生前法名を受けている。そして、浄土真宗では法名を生前授与する全国的なシステムができているようだが、このことは曹洞宗よりも浄土真宗のほうが仏教がより生きている証左と言えないだろうか。

 
昭和六十一年(一九八六)に九十六歳で永眠された島田市の名誉市民第一号、本通五丁目の清水真一さん(通称チシンさん)は、二十七歳のとき「しゃくぶんせい釋聞正」という生前法名を受けており、没後、この敬信寺の墓地に葬られた。チシンさんの法名「釋聞正」は人の話を正しく聞くという意であろうか。国文学者・歌人・民俗学者の折口しのぶ信夫(一八八七―一九五三)は生前「しゃくちょうくう釋迢空」という法名を戴き、それを作品発表の際に筆名として用いた。


 私は自分の法名について考えてみた。それは八十年間の私の生きざまを二文字で如実に示すものでなければならない。

 先ず、「じきょう自彊」を頭に思い浮かべた。私の母校・自彊小学校の校名である。「自彊」という言葉は明治四十一(一九〇八)年に国民教化のために出された『ぼしんしょうしょ戊申詔書』から引用したもので、その出典は中国の『えききょう易経』の中にある。「しょうじつてんこうけん象日天行健、くんしはもってじきょうやまず君子以自彊不息」。天の歩みは誠に力強い。君子はこの天にのっとって、休みなく自彊(自己を強制する。私欲に克つ)の努力を続けてゆくべきである、との意のようである。私はこれまで、「目標を定め、努力してそれを達成する」という信条で生きてきた。ゆえに「自彊」は私の生きざまを的確に表現しているが、文字だけ見ると意味が分かりにく難い―と思われるので取り下げた。

 次に考えたのは「水」に関連する二文字である。水は人間にとって極めて大切なものだ。人は食べ物がなくても一か月近く生きられるが、水がなければ数日で死ぬ。また「水は、方円の器に随う」という。人は交友・環境しだいで善悪のいずれにもなる、とのたとえだ。更に、水を飲むとき、その水源を思う、幸せをくれた恩人を忘れないたとえで「飲水思源」という言葉もある。常に低いほうへ流れるという水の原理は不変である。そして水は天から下り、霧・雲・雨・雪・あられ霰・露・霜と変化して再び水蒸気となって天へ戻る。そうした自然の運行によって人間の生活にうるおいを与えてくれる。私は水の如くありたいと願い、「如水」はどうかと思った。しかし「如水」といえば、豊臣秀吉の知恵袋と言われた竹中半兵衛と並ぶ知将の黒田如水があまりにも有名なので、私の存在は消えてしまう。これもボツにした。


 月一回の定例文章会から帰路、車の中でNさんに法名についての苦労話をしたら、彼女から、
「益田さんは文章を書くのがお好きだから、〝文〟を入れたらどうでしょう」との助言があった。
「うむ。これは行けそうだ」と、私は咄嗟に感じた。Nさんの思い付きが私の琴線に触れたのである。そして〝文〟についてあれこれ考えた末、「ゆうもん游文」の二文字に到達した。
 平成十一年三月、春のお彼岸の日、大井川民俗の会の一行に加わり、マイクロバスで水戸を訪れたことがある。たまたまその年、NHKの大河ドラマ『徳川慶喜』が放映され、水戸藩主・徳川なりあき斉昭が登場するので、水戸には『徳川慶喜展示館』が設けられていた。私たちは展示館や偕楽園の梅林、好文亭などを見学してから弘道館に立ち寄った。弘道館は斉昭が創設した藩校である。正面玄関横の梁に、てんしょたい篆書体で「げいにあそぶ游於藝」と書かれたへんがく扁額が掲げてあって、斉昭の雅号の落款があった。斉昭は書が得意であったというが、けれんみのない品位ある筆跡である。傍らに、「六藝〝礼、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬術)、書、数〟を学ぶ時、学問武芸にこり固まらずにゆうゆう楽しみながら勉強するの意」との説明文があった。「游」は「遊」と同義である。「藝に励む」といえば平凡になる。「藝に游ぶ」というこの表現は、なんと素晴らしい語句だろう。「真面目一本槍では駄目で、ゆとりを持って楽しみながら学ぶ」というこの弘道館の教育方針は、点取り主義でゆとりが無く、受験勉強に明け暮れる日本の教育の現状を、痛烈に批判しているように思った。私は、この文言を考案した斉昭に畏敬の念を覚えた。(ただし、これは斉昭の創作ではなく、論語のじゅつじ述而篇第七にある文句であることを後日知った。)

 私は、心の奥深くに入っているこの「游於藝」の字句を思い出した。芸といえば、これまでに私は数社の経営に参画し、三つの自由業に取り組み、趣味として文章・長唄・囲碁・ゴルフ等をたしな嗜んだので、こじつければ斉昭のいう六芸に励んだことになるかもしれない。そこで法名を「游芸」にしようと思ったが、遊芸というと一般的には琴・三味線・踊り・小唄などの遊びごとに関した芸能を連想するからやめて、私の六芸の中で最後まで残った「文章」のみにしぼりこみ、「游文」という法名を思い付いた次第である。

 顧みれば、私は故・内藤亀文先生のご指導を受けて文章を習い始めてから四十年経ち、随筆文集『しぐれシリーズ』を六号まで上梓し、近く七号を出版しようとしている。そして、文章というものはどのようにして書くべきかということが最近になって少し分かってきたような気もする。高齢のため、他の芸はすべてできなくなったが、文章だけは今も続け、それが唯一の生き甲斐となって、私は今も充実した人生を送っている。文章こそ私の人生の支柱であり、それを表す「游文」は私にとってまこと実にふさわしい法名であると思う。
 

 伊藤住職に法名授与の具体的方法について尋ねると、希望者に対しては東本願寺の静岡別院で五日間(一日四時間)の前期教育があり、少し間を置いて京都の本山で三日間の後期教育が行われて、その後に法名が授与されるのだという。けれども、悲しいかな、今の私の体力では到底この二つの教育に耐えられないから、生前授与は極めて困難である。従って住職にお願いして、法名を登録しておき、死後授与になると思う。

 碁ワールド九月号に高尾しんじ紳路名人・本因坊に関する記事が載っていた。今年の本因坊戦七番勝負で高尾が挑戦者依田のりもと紀基九段を下し、本因坊戦三連覇の偉業を為し遂げた。そこで師匠の藤沢ひでゆき秀行名誉棋聖が高尾に本因坊秀紳という号を贈ったという。ここまではよくある話だが、その下に「本因坊秀紳直筆きごう揮毫色紙を三名様にプレゼント」というお知らせがあり、高尾本因坊が「游志」と書いた色紙を持った写真が載っていた。これを見て私は目を丸くした。私がこれまであれこれ考えた挙句に決めた法名「游文」と同じような語句を高尾本因坊が誇らしげに示していたからである。碁への志とは何か。それは碁の奥義を極めるということであろう。

私は碁を勝とうとして局部的にこん根を詰めて考えることが往々にしてあるが、これはよくない。その部分を客観的に見ること、つまりは、取られそうになった石をむしろ捨て石にして外から締め付けたらどうなるかという逆転の発想、また、全局的に見てもっと重要なところはないかと考えることが大切である。すなわち、碁が上達するには常に一部分に囚われず、冷静にゆとりのある気持ちを持って大局的に考えることが重要なポイントになる。それを遊びというのだと思う。藤沢秀行氏は和漢に通じ、書を能くすると聞いているから、この「游志」という語句は藤沢氏が考えたものではないかと思われる。そして、それが偶然にも私の苦心惨憺して考えた語句と酷似したのであろう。

 広辞苑を繰ると、「遊び」の解釈の八番目に「機械の部分と部分が密着せず、その間にある程度動きうる余裕のあること。ハンドルの遊び、というような用い方をする」とある。自動車のハンドルに遊びが無いとスムーズに運転できない。人間社会が円滑に運営されるには、心のゆとりを生む「遊び」が必要であるのに、合理化とは遊びを少なくすることだと思いこんで人員や経費を削り続けた。その結果、働きざかりでうつ病や認知症になる人や自殺者が増えてきた。経済の成長は止めても、安心して生活できる世の中にしたいものだ。

このように考えると「游文」という法名に私は一段と魅力を感ずる。惚れ込んだと言ってもよい。これからは「釋游文」をペンネームとして大いに使おうと思う。そしてあ彼の世に行っても随筆を書き続けて、「しぐれ八号・九号」を上梓したいと思っているが、当然、その時は「釋游文」が本名となる。
(平成十九年九月)

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